太田述正コラム#10423(2019.3.10)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その11)>(2019.5.28公開)

 ・・・陰謀者による反長州分子の一つ――裕仁の統治を通して長く影を落すこととなる――が、陸軍諜報部の兵卒の中に設立された。山縣の部下の監督の目からはるか離れて、それはフランスに拠点を置き、ヨーロッパの各首都に外交武官として配属されている若い皇族をその要員とした。この在パリ皇室組織の人材確保役は、32歳の東久邇宮――朝彦の末っ子で、後に日本をマッカーサーに渡した首相――が担当した。・・・
 1914年、彼は陸軍の専門参謀大学あるいは戦時大学――その将校は独自の戦略を立案する能力を示さなければならない――を卒業した。・・・

⇒バーガミニは、陸軍省のことを英語ではWar Ministryと言うことから、War Collegeと修辞したのでしょうが、それをわざわざ戦時大学と訳すかね、ということです。
 「専門参謀大学あるいは戦時大学」は、単に「陸軍大学校」と訳せばいいのです。(太田)

 そして1919年には、彼は完璧な諜報専門の将校となっていた。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_07_5.htm

⇒そもそも、反長州閥運動など陸軍内になかった、と私は主張している(コラム#省略)わけですが、それはさておき、「1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで、フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
とは言っても、その実態は遊学であった(上掲)ところの、東久邇宮が「完璧な諜報専門の将校となっていた」、には吹き出しました。
 バーガミニは、いわゆるバーデン・バーデンの密約・・この言葉自体はこのくだりでは登場しない・・の背後に在欧の東久邇宮がいた、と言いたいわけであり、引用はしませんでしたが、実際、その趣旨のことを書いています。
 また、これも引用しませんでしたが、いわゆる宮中某重大事件を山縣が引き起こしたのは、反長州閥・・繰り返しますがそんなものは存在しなかった!(コラム#省略)・・の動きに反撃するためだった、という趣旨のことも言っています。(太田)

 閑院<宮>は、<当時、>まだ56歳で、・・・活力に富み、大正天皇の六人親王の内では最も活動的で、日本陸軍で最も若い元帥となって、山縣とその身分と地位において肩を並べることとなった。<彼は、>・・・1931年から1940年まで――満州征服、中国侵略、1939年のロシアに対するノモンハン事件、そして対米戦の準備のあった――陸軍軍令部長官であったのは彼であった。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_07_6.htm

⇒翻訳者、「陸軍軍令部長」は酷過ぎます!
 バーガミニの方も、お飾りで、しかもそのことを意識していたと思われる閑院宮、と、押しも押されぬ元勲であった山縣とを「肩を並べ」させちゃあいけませんや。(太田)

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[西園寺公一とゾルゲ事件]

〇西園寺公一

 引用しなかったが、このあたりで、西園寺八郎への言及があったので、その息子の公一のことを思い出し、少し調べてみた。

 西園寺公一の「祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(<その>実父は<最後の>長州藩主で<あった>公爵毛利元徳)で、母は公望の娘・新子である。・・・
 オックスフォード大学へ留学。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。・・・
 1931年に日本へ帰国。父八郎からコネで宮内省入りを勧められたが、「マルクス主義者である」として頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けたが成績不良で不合格となる・・・
 その後近衛のコネを使い外務省嘱託職員を務めていたが<転進。>・・・
 1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎<秀実(ほつみ)>らとともに・・・対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また日中戦争下で「汪兆銘工作」にも参画・・・
 昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のための工作を行った。この時期、松岡洋右外相に同行して<欧州>を訪問、・・・スターリンや・・・ヒトラー、・・・ムッソリーニとも会っている。
 昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、「日米交渉について陸海軍の意見調整を図る」という任務が与えられたが、その裏ではソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲの手下である尾崎に協力し、様々な情報をソ連に流していた。・・・
 <1941>年10月に、尾崎と・・・共に・・・逮捕された。その後裁判で禁錮1年6月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。・・・
 「中国共産党員との交渉ルート確保のために執行猶予で保釈された可能性がある」と言う意見・・・リチャード・ディーコン<(注7)>『憲兵隊–日本の秘密警察史』・・・もある。

 (注7)Richard Deacon(本名:Donald McCormick。1911~98年)。日本でも多数の翻訳書が出ているところの、諜報物のイギリス人著述家だが、同国では、彼によって書かれたものの信頼性には疑問符がつくとされている。
http://ameqlist.com/sfd/deacon.htm
https://en.wikipedia.org/wiki/Donald_McCormick

 1957年に・・・中華人民共和国・・・の「民間大使」となる。・・・中華人民共和国へ移住し、中国共産党から「日中文化交流協会常務理事」や「アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長」の肩書と、500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの給与を与えられることになり、同政府の意向を受けて北京にて国交成立前の日中間の「民間外交」を行った。 ・・・
 西園寺も晩年は子息とともに創価学会寄りの姿勢を見せるようになる。入信こそしなかったものの、「外部の理解者」として、影響力を誇示しようとしていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%B8%80

 マルクス主義、近衛文麿、帝国陸軍(汪兆銘工作)、中華人民共和国、創価学会、と来れば、公一本人の存念はともかくとして、彼を使ったのは、私見では杉山構想完遂のために連携していたところの、杉山元と(杉山没後だが)毛沢東だった、と見たくなる。
 (中共当局による、西園寺への戦後のべらぼうな厚遇が、彼の(結果としての)ソ連のスパイとしての働きに対するものであるはずがない以上、帝国陸軍によるところの、彼の、汪兆銘工作、その実は、杉山・毛連携工作(コラム#省略)、における、杉山の手先としての働き、に対する褒賞であった可能性が高い、ということだ。)
 仮に私のこの見立て通りだったとすれば、ディーコンの臆測は正しかった、ということになろう。

(続く)