太田述正コラム#8192005.8.10

<原爆投下と終戦(その1)>

 (本篇の上梓は8月2日です。4日から12日まで夏休みをとるため、上梓頻度を増しています。)

1 始めに

 「英米の歴史学や社会学等人文・社会科学の動向を追っていると、まさに日進月歩であり」(コラム#817)と申し上げたばかりですが、その例を一つ挙げましょう。

 (以下、特に断っていない限り(http://www.2think.org/racingtheenemy.shtmlhttp://www.hup.harvard.edu/reviews/HASRAC_R.htmlhttp://hnn.us/roundup/comments/11994.html(以上は下掲書の書評)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4724793.stmhttp://www.csmonitor.com/2005/0802/p17s01-bogn.htmlhttp://www.ufppc.org/index2.php?option=content&task=view&id=2788&pop=1&page=0http://www.history.ucsb.edu/faculty/hasegawa.htm(いずれも8月2日アクセス)による。)

 6月22日に、Tsuyoshi Hasegawa, Racing The Enemy: Stalin, Truman, & the Surrender of Japan, Belknap/Harvard University Press, 2005 が出版されました。

 ハセガワは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授で1969年にワシントン大学でPH.Dを取得しており、ロシア/ソ連を中心とした近代欧州史が専門です。

 ハセガワは日本人の姓名を持つ日系米国人であり、日本語の著書(「ロシア革命下ペトログーラードの市民生活」中央公論社1998年)があり、また、最近では、北方領土問題等、戦後の日ソ関係史の研究者として知られている人物でもありますが、冒頭でご紹介した本に係る一連の米英の書評等の中で、ハセガワが日系人であることに言及したものは皆無であること、つまりハセガワは(正真正銘の)米国人であること、を銘記してください。

 一体どうして日本人の国際政治学者や現代史の研究者の中から、ハセガワのような本を書く人間がこれまで現れなかったのでしょうか。彼らの意欲と能力の余りの低さに、天を仰いで嘆息するほかありません。

2 終戦をもたらしたのは原爆投下ではない

 ハセガワが、米露日三カ国の文献を調べ尽くした上で、この本で、「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話(注1)を完膚無きまでに打ち砕いた、という点で米国の研究者(注2)は一致しています。

 (注1)考えても見よ。カギ括弧内はこれまで、米国の研究者及び国民の「通説」だった。それがこの本によって一瞬にして米国の研究者の間で「神話」と化したわけだ。今後は可及的速やかに、米国の国民と日本の研究者・国民に、これまでの「通説」が「神話」であったことを知らしめ理解させなければならない。せめてそれくらいは日本の研究者や日本政府がやってほしいものだ。

 (注2)いずれもビューリッツアー賞受賞者であるダワー(John W. DowerEmbracing Defeat: Japan in the Wake of World War II(邦訳あり)の著者)やビックス(Herbert P. BixHirohito and the Making of Modern Japan(邦訳あり)の著者)を含む。

 ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。

 すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。

 これが実質論です。

 もう一つ、形式論もハセガワは提示しています。

 日本の終戦の期日を決定したのはソ連だったという点です。

 日本は8月15日にポツダム宣言を受諾して降伏した、ということになっていますが、降伏文書に日本政府の代表がミズリー号上で署名したのは9月2日です。

 これは単なる形式行為だったのではありません。日本が降伏したのは8月15日ではなく、9月2日なのです。

 ソ連による全千島列島と歯舞・色丹島の武力侵攻・占領が完了したのがその前日であり、ソ連がそれまで日本の降伏を認めなかったため、米国を始めとする他の連合国も日本の降伏を認めるわけにはいかなかったからです(注3)。

 (注3)ソ連は、8月16日に千島列島の武力侵攻を決定し、8月18日に侵攻を開始した。千島列島最北端の占守(Shimusu)島攻防戦は、先の大戦における最後の戦いであり、途中、日本側は停戦のために白旗を掲げた使者を送ったがソ連側はこの使者を射殺した。日本側資料では日本側死傷者500名以上、ソ連側死傷者約3,000名、ソ連側資料では日本側約1,000名、ソ連側死傷者約1,500名が出た。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6。8月2日アクセス)