太田述正コラム#8202005.8.11

<原爆投下と終戦(その2)>

 (本篇は、8月3日に上梓しました。明4日から12日まで夏休みをとるので、コラム上梓頻度を増しています。)

3 スターリン論

 ここでちょっと回り道をしましょう。

 ご紹介した形式論については、日本が降伏を決意し、その意思を表明した後も降伏を認めなかった、ということであって、日本に降伏を決意させかどうか、という話とは無関係ではないか、という疑問の声が寄せられそうですね。

 確かにこの疑問はもっともです。

 1945年2月11日、スターリンは米英に対し、南樺太と千島列島の割譲を受けることを条件に対日参戦を約束したのですから、8月8日に参戦(満州侵攻開始は9日)し、8月15日に日本が降伏の意思を表明した時点で、日本の降伏を受け入れ、停戦しても領土は手に入ったはずなのに、どうして降伏を受け入れなかったのでしょうか。

 振り返って見れば、1945年4月5日にソ連は日本に日ソ中立条約の不延長を通告し、それ以降、藁をもすがる思いで日本がソ連に終戦の仲介を何度も頼んできたのを無視し(注4)、自分が対日参戦を果たすまでに終戦が実現すること(つまりは日本が降伏すること)を妨げたわけですが、これはリアルポリティークの観点からすれば、しごく合理的な対応でした。

 (注4)5月14日、日本、対ソ交渉方針を決定(終戦工作開始)。6月3日、広田外相マリク駐日ソ連大使と会談。7月10日、日本、近衛特使のソ連派遣を決定。7月18日、ソ連、近衛特使派遣に否定的回答。7月26日、連合国、ポツダム宣言を発表。7月30日、佐藤駐ソ大使、ソ連に和平斡旋を依頼。(http://www.c20.jp/1945/08s_san.html。8月2日アクセス)

 しかし、それから先のソ連の対応は、いたずらに日ソ双方の死傷者を増やしただけの愚行でした。

 これは、ソ連の独裁者スターリンが、日本からの領土獲得は、(秘密交渉によってではなく)自分が戦いとった、という体裁を整えることにこだわったからです。

 スターリンが自分の個人的栄光のために愚行を行った例は枚挙にいとまがありません。

 例えば、独ソ開戦後にスターリンが行った粛清です。

 元米CIA幹部のマーフィー(David E. Murphy)の著書 What Stalin Knew:The Enigma of Barbarossa, Yale University Press, 2005等によると、次のとおりです。

スターリンは、1941年6月22日の独ソ開戦の前日、ソ連の指導者達が集まった会合で、なお、ドイツが対ソ開戦することはありえない、と述べてみんなをあきれさせました。

ドイツの対ソ開戦情報があらゆるところから入ってきていたにもかかわらず、スターリンはヒットラーと個人的通信を行っており、その中でのヒットラーの対ソ不戦の言葉を信じ込んでいたのです。

ここまでは、ソ連のような独裁国家のみならず、自由・民主主義国家でも時には起こりうることです。反対の情報に耳を貸さず、ブッシュ米大統領もブレア英首相もイラクのフセイン政権が大量破壊兵器を持っている、と信じて疑わなかったという事例は記憶に新しいところです。

異常なのは、独ソ開戦によってソ連が大打撃を蒙った後にスターリンがとった行動です。

日本にいたソ連のスパイのゾルゲ(Richard Sorge)は、既に5月15日の時点で、ドイツの対ソ開戦は6月20日から22日の間だ、と通報してきていました。6月13日には、その日は6月22日だ、とまで改めて通報してきていました。しかし、スターリンはこれらの通報を無視しただけでなく、その後日本当局に逮捕されたゾルゲについて、日本がソ連によって逮捕されていた日本の軍人某との交換を打診してきたとき、スターリンはこれに応じず、ゾルゲを処刑に追いやるのです。

またスターリンは、ソ連の空軍参謀長を独ソ開戦後5日目に処刑しています。

このようにスターリンは、自分の犯した大失策について知りすぎた人間を、次々に物理的に抹殺して行き、自分に対する一切の批判を封じたのでした。

(以上、http://hnn.us/roundup/comments/11994.html前掲、による。)

4 米国はなぜ原爆を投下したのか

 米国政府は、日本の暗号を解読していたので日ソ交渉の経緯等を承知しており、日本が天皇制の維持等ができれば降伏するであろう(注5)ことを熟知していました。

 (注5)終戦の際、日本の国民の生命よりも天皇制の存続の方を重視した、という批判が日本人の間にもあるが、当時の日本政府や軍部のこの判断は理解できる。日本の近代化が天皇「親政」への「復古」によって成し遂げられた(コラム#816)ことを持ち出すまでもなく、天皇制がつぶされておれば、あのような日本の敗戦からの急速な復興はありえなかったろう。

     もとより、当時の日本政府や軍部に批判されるべき点がたくさんあることは否定しない。国際法軽視の姿勢・組織内規律の弛緩・自国軍民の生命の軽視(捕虜になることの否定・玉砕戦法等々)などだ。

 しかし、米国政府は、日本の無条件降伏しか念頭になかったため、日本が無条件降伏の意思を表明するまで日本の降伏は認めない方針だったのです。

 これは、米国政府自身がかきたててきたところの、真珠湾「奇襲」攻撃への米国民の復讐心を満足させるために必要であったと同時に、条件付降伏交渉に応じると、降伏を不満とする日本の国内の勢力を押さえられない、と判断していたからです。

 そこで、日本から無条件降伏をかちとるためには、原爆を投下することが不可欠だ、と米国政府は考えたわけです。

 原爆投下については、後二つ理由がありました。