太田述正コラム#10435(2019.3.16)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その17)>(2019.6.3公開)

 「東京の外務大臣公邸・・・では、国の首脳陣による重大な会議が催されていた。その議論は、1927年 〔原著では29年と誤記〕 6月27日から7月7日まで続けられ、それには、日本のすべての植民地総督ら――朝鮮、満州からの将官や「特務官」、そして傍聴人として中国本土の公使――が参加していた。学者間では「東方会議」<(注16)>と呼ばれていたその会議は、鈴木貞一が議長と基調報告を行った。・・・

 (注16)「1926年(大正15年)7月、蒋介石を総司令とする国民革命軍は北伐を開始し、9月初旬には漢陽・漢口を占領、10月には武昌に入り揚子江を制圧した。翌1927年(昭和2年)3月には上海、南京が占領された。3月24日南京になだれ込んだ北伐軍は在留外国人に対し暴行掠奪を行う南京事件が発生した。米英の軍艦3隻は射撃をあびせ、陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたったが、日本海軍は幣原外交の指令にもとづいて、北伐軍兵士の暴行と狼藉を傍観するのみであった。このため幣原喜重郎外相の弱腰外交は痛烈に批判された。
 1927年4月に成立した田中義一内閣は強硬外交を推進し、居留民保護と、張作霖への間接的援助と、中国の権益強化と拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。そして同年6月、田中義一首相は<兼務していた外相として、>東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。そして、会議では次のようなことが決定された。当時、中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。つまり、「現地保護」し出兵も辞さない。そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国内地と切り離して(満蒙分離政策)、同地域の平和のため(治安維持にあたり)日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)のである。また、万が一中国の内乱が激化した場合には中国国民党と結んで、中国共産党による中国の共産化を阻止する方針も定められた。・・・
 会議の際、関東軍司令官武藤信義中将は田中義一首相に向かって、『これは決して欲することではないが、それだけの大方針を実行に移すには、そのために世界戦争が起こることをも覚悟しなければならない。少なくとも米国は黙っていない。米国が黙っていないとすれば、英国も、その他の列国も、その尻について騒ぎ立てることになるが、その米国に対する対策、また世界戦争が起こった場合に、どうするか、その決心と用意があるか』と問うと、首相は『おら決心がある』といった。武藤司令官は『後になってぐらつくようなことはないか』と念を押すと、首相は『おら大丈夫、決心している』と断言した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1927%E5%B9%B4)

⇒武藤信義(1868~1933年)は佐賀藩士の子で島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われますが、陸士、陸大(首席)という大秀才であり、杉山元が軍事課長をしていた1923(大正12)~25(大正14)年、武藤信義は参謀次長をしており、
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9
「注12」の東方会議の席上の発言は、恐らく、武藤の持論であるところ、この持論を参謀次長の時に杉山に吹き込み、「対策・・・決心と用意」をせよ、と「命じ」た可能性が大だと思います。
 つまり、武藤こそ、杉山構想の生みの親である可能性が大だ、ということです。(太田)

 の1928年5月、蒋介石の国民政府 「解放軍」 の北伐は、およそ2,000名の日本人が居留する山東半島と旧ドイツ租借領、青島の付近に達した。田中首相は、彼の旧友、張作霖を援助するため、その地域への日本軍駐屯部隊を強化し〔第一次山東出兵〕、その干渉をもって、蒋介石の進軍を遅らせようとし・・・7,000人の中国人を殺害した。・・・

⇒更なる引用は行いませんが、この済南事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
・・第一次山東出兵は第二次山東出兵の誤り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5
・・に関し、バーガミニは、何と、一方的に日本側を悪者にしています。(太田)

 <1928年(昭和3年)6月4日、>張<作霖>と知事は、17名の随行員とともに<関東軍河本大作高級参謀の陰謀により>死亡した<(注17)>。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_09_3.htm

 (注17)田中義一(1864~1929年)は、山縣有朋のお眼鏡に叶った人物だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
というのだから、恐らくは、島津斉彬コンセンサス信奉者だったのだろうが、東方会議で「決定」された「方針」に反し、「陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 すなわち、私情にほだされて、「決心」不十分にも、自ら、「方針」違背を起こしたことになる。

⇒張作霖爆殺事件当時の陸相の白川義則(1869~1932年)は、島津斉彬コンセンサス信奉者であったとは思えませんし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%89%87
陸軍次官の畑英太郎(1872~1930年)も同様ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
当然、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者ではあって「方針」に基本的に賛同していたであろうことから、「注13」の事情を踏まえ、(佐賀県出身なので恐らくは島津斉彬コンセンサス信奉者であったところの、)関東軍司令官の村岡長太郎(1871~1930年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A4%AA%E9%83%8E
が部下の河本大作(1883~1955年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C
参謀にやらせた張作霖爆殺に、2人とも、暗黙の了解を与えたか、事後的に擁護に回ったもの、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
と思われます。
 これを、ジュネーブから帰国し、次期軍務局長含みで1928年(昭和3年)、陸軍兵器本廠附(待機ポスト)となっていた杉山元
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
が、横目で見ながら、武藤からの宿題(?)の「答案」の最後の詰めを行っていた、というのが私の見立てです。
 なお、当時の軍務局長で、杉山が軍務局長になると次官に昇格することとなる、阿部信行(コラム#47、5016、8410、10042、10088)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C
は、木戸幸一の縁戚・・阿部の長男の妻の父親は(杉山と通じている)木戸幸一・・であり、
https://books.google.co.jp/books?id=CmdgDwAAQBAJ&pg=PT101&lpg=PT101&dq=%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C;%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80&source=bl&ots=uLxh5I5x7R&sig=ACfU3U0Dh4Iogujx0qgO9TEab382FgDOkw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjOr5zCo-PgAhUMw4sBHUFIBVEQ6AEwEXoECAcQAQ#v=onepage&q=%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C%3B%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80&f=false
この間、二重の意味で、阿部は杉山に熱心に情報提供を続けた、と思われます。
 なお、彼は、「東條内閣の実現に一役買った」り、「1942年(昭和17年)4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任<し、>5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C 前掲
とはいえ、島津斉彬コンセンサス信奉者であったかどうかは判断を留保しておきます。(太田)

 昭和天皇が張作霖殺害を命じたという妄想の下、天皇と田中義一との確執を説明するのに四苦八苦しているバーガミニ、という感を受けるくだりですが、先に進みます。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_09_4.htm

(続く)