太田述正コラム#10437(2019.3.17)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その18)>(2019.6.4公開)

 第四部 満州侵攻
  第十章 海軍力(1929~1930)

 石原莞爾を持ち上げていることに鼻白む思いがしましたが、ここも、引用に足る個所はありませんでした。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_10_1.htm

 バーガミニ、山本五十六もお気に入りのようですが、ロンドン海軍軍縮会議の話にやはり引用に値する個所はありませんでした。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_10_2.htm

 近衛文麿が木戸幸一を宮中へ入れようとする場面が出てきますが、またまた、引用に値する個所はありませんでした。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_10_3.htm

  第十一章 1931年3月

 「・・・浜口<雄幸>は三十年以上にわたって西園寺と共に政治活動を続けてきた。海軍予算を削減したのも、ただ西園寺の意見に沿おうとしたからであった。・・・
 <その>浜口首相<が、>・・・1930年11月14日朝・・・受難<した。>・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_11_1.htm
 
⇒かつて伊藤博文の後の政友会総裁を務めたことがある西園寺ですが、彼としては、「田中の後任として、「憲政の常道」に従い、」政友会の政敵であるところの、「民政党<の>総裁の浜口雄幸を推薦した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
だけのこと、また、浜口が海軍予算を削減したのも「戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
だけのこと、でしょう。(太田)

 このほか、1931年の三月事件の首謀者を大川周明と閑院宮の共同謀議によるものという妄想を、性懲りもなくバーガミニは書き連ねていますが、引用は止めておきます。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_11_1.htm

  第十二章 奉天占領(1931年)

 「・・・明治天皇による朝鮮の併合は、日本の大きすぎる人口のもたらす問題が北への拡大によっては解決されないことをすでに証明していた。日本の大衆は、そこがいかに肥沃であろうとも、北方の寒冷な耕作地へと移民してゆくことに関心などなかった。数世紀昔に摂取されたアイヌの北海道でさえ、まだ人口は希薄だった。日本がいかにも必要であったのは、植民地に適した温暖な土地や、東南アジアの石油やゴムや鉱産物といった産業発展のための資源であった。だが、陸軍の単純な頭脳のみが、満州を自身の目標として必要としていた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_12_1.htm

⇒悪意に満ちた筆致ですが、日本の満州進出は、経済的目的ではなかったことをバーガミニは認めているわけです。(太田)

 再び、引用すべき個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_12_2.htm
 同じく。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_12_3.htm

  第十三章 ドル買い

 「1931年9月末から1932年5月末まで、日本は、海外での戦争あるいはその恐れ、国内での暗殺あるいはその恐れ、さらに、内外双方にわたる賄賂や恐喝という、広範にもつれ合った脅迫の糸に縛り上げられて行った。この八ヶ月間の政治的恐怖劇は、ほんの数十人の男たち――宮廷顧問演ずる音頭取り、超国粋的任侠役、大陸浪人、突出海軍飛行士および陸軍諜報将校らの演ずる行動隊――によって上演された。日本の記述では、彼らそれぞれの個人的役割は個々別々に記録され、何ら全体的記述にまとめられたことはない。しかし・・・
 彼らはひとつの同じ目的を共有して連携していたのではなく、今日の米国のCIA(中央情報局)とでも概ねなぞらえれる、ひとつの頭脳集団によって組織され、指揮されていたのであった。・・・
 もっとも重要なものが、大洗――東京から50マイル〔80km〕北東の旧尊皇派の拠点、水戸の近くにある保養地――にあった常陽明治記念館<(注18)>である。

 (注18)「幕末と明治の博物館<は、>・・・茨城県東茨城郡大洗町に設置されている、主に幕末から明治時代にかけての資料を集めた博物館であ<り、>・・・1929年(昭和4年)4月14日に、宮内大臣を歴任した田中光顕により、「常陽明治記念館」(じょうようめいじきねんかん)として開業した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

 当館の幹部は、1920年代に皇典研究所と呼ばれた皇居内の非公開組織を通じ、その報告書を裕仁の顧問たちに送っていた。常陽明治記念館の館長、田中光顕<(注19)>〔たなか みつあき〕伯爵は、日本の古参スパイで、 「蜘蛛」 と呼ばれることもあった。・・・

 (注19)1843~1939年。土佐藩士。志士。「陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%89%E9%A1%95

 <彼は、>1898年から1911年までの13年間を宮内大臣として仕え、明治天皇が最も信頼をおいた二人の侍従の一人だった。
 明治後の20年間、蜘蛛の田中は、スパイ組織の成長を監視し、1931年までには、そのスパイ網は、アジア全域から、南はオーストラリア、西はイランまでを覆うものとなった。さらに、1941年までにはそれは世界全体へと広がり、南北アメリカやヨーロッパの主要都市にその工作員を配置した。

⇒典拠らしい典拠を挙げずに、妄想が次々に紡ぎ出されています!(太田)

(続く)