太田述正コラム#10449(2019.3.23)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その24)>(2019.6.10公開)

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[改めて柳川平助について]

 柳川平助は、事実上の佐賀県人であり、島津斉彬コンセンサス信奉者であると思われるが、陸大(24期)優等とはいえ、軍事課長歴も軍務局長歴もない、いや、それどころか、それまで、陸軍省勤務も参謀本部勤務もしていない
https://sakurataro.org/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%AA%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
https://baike.baidu.com/item/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9
のに陸軍次官になっている。
 このこと自体が異例であったはずだ。
 さて、時の陸軍大臣は荒木貞夫だが、柳川は、杉山とは陸士同期(12期)である上に、「国際連盟派遣」という点では杉山の(すぐ後の?)後任であり、二重の意味で、杉山と親交があった可能性が高い。
 で、杉山は陸軍次官であった時に、次官として仕えた3人目の陸軍大臣である荒木貞夫に周到に根回しを行い、自分の後任に陸士・陸大同期(22期)の小磯国昭を、そしてその後に陸士同期の柳川を、持って来る手はずを整えた、と私は見ている。
 もとより、小磯は、杉山が引っ張り上げた人間であり、彼が次官になってからも、この人事を予定された通り行うべく大臣の荒木への念押しを続けたと思われる。
 (日本の省庁では、伝統的に、大臣は外を次官は内を主として担当するものであり、高級幹部の人事の原案は次官が作り、大臣は基本的にそれに従うものだ。)
 帝国陸軍の場合、陸士と陸大のどちらが同期意識が強かったのかと言えば、陸士の方だったと思われるところ、陸士同期の次官が3名、計丸4年間にわたって続く・・杉山(1930.8~)・小磯(1932.2~)・柳川(~1934.8)、別の言い方をすれば、陸軍次官は結果的に30名で終わったがその1割を1つの期で占める・・
http://www.geocities.co.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
というのは、相当異例のことだったはずだ。
 柳川は、杉山の言うことは何でも聞かざるをえない立場になったに違いない。
 その後の柳川の軌跡を見てみよう。
 「1936年の二・二六事件の後に予備役編入。・・・
 <そのすぐ翌年の>1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、召集された柳川が第10軍司令官に補された。

⇒杉山が陸軍大臣に就任したのが1937年2月で、第二次上海事変が勃発したのが8月13日、そして、第10軍が編成されたのが10月20日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
だが、杉山は、自分が引き起こしたところの、盧溝橋事件以来、柳川招集の機会をうかがい、その機会が訪れた時に直ちに招集した、ということだろう。(太田)

 柳川は杭州湾上陸作戦を成功させ、中国軍の退路を脅かし、上海攻略に貢献する。更に参謀本部や上海派遣軍の意向を無視し独断で中国軍を追撃、南京攻略戦へと発展させる。

⇒こんなことを柳川がやった、というか、柳川ができたのは、杉山からそうせよと赴任前に内々指示されていたからだ、と考えないと説明が困難だ。
 となると、同年12月の、大量強姦、略奪を伴ったところの南京事件もまた、杉山の指示だったと考えるのが自然だというものだろう。
 (だからこそ、第10軍は11月7日に松井石根を司令官とする上海派遣軍とともに、松井石根を、いわば総司令官とする中支那方面軍とし改編された(上掲)にもかかわらず、「軍の規律を求めた松井石根司令官の通達」に違背する行動を、柳川は隷下の第6、18、114師団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC10%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
にとらせた、というか、柳川はとらせることができた、わけだ。
 改編後、12月2日から司令官となった朝香宮隷下となったところの、上海派遣軍・・第3、9、101師団及び野戦重砲兵第5旅団、からなる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%B4%BE%E9%81%A3%E8%BB%8D
からは、いわゆる百人斬り競争事件の実行者2人・・冤罪であった可能性が高い・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89
を除き、問題とされた事例は発生していない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4) 全般
 杉山としては、軍紀に厳しかったところの、しかも先輩にあたる、上海派遣軍前司令官の松井・・南京攻防戦の時点では中支那方面軍司令官・・に対してそんな話はできないし、その上海派遣軍司令官後任の皇族たる朝香宮にも、そんなことを話したりやらせたりするわけにはいかなかった、ということだろう。)(太田)

 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。
 1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9 「」内及び全般

⇒杉山が、その後、柳川をいかに厚遇したかが分かろうというものだ。
 ただ、それにしても、柳川の司法大臣の時の内話の内容はひどい(コラム#10042)が、これは、南京事件の良心の呵責から、彼が、若干、精神に変調をきたしていた、と見ることにしたい。(太田) 
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 紹介するに値する個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_16_2.htm

(続く)