太田述正コラム#10453(2019.3.25)
<八幡市市民講座・福岡オフ会での質疑応答(その2)>(2019.6.12公開)

2 福岡オフ会(Oは私)

 (福岡オフ会には、Chaseさんを含め、地元から計2名、久留米市、岩国市、東広島市、から、それぞれ1名ずつ、の出席でした。
 ちなみに、5年前の第一回の福岡オフ会の時の出席者以外の新規の出席者は1名でした。
 また、この第一回の時には司法試験受験勉強中であった出席者が、その後、合格され、福岡市内にご自分の事務所を構えておられるところ、今回のオフ会にはその事務所からのご出席でした。
 前回も幹事をやっていただいたChaseさんですが、今回、(オフ会前の昼食会、オフ会後の高場乱の塾跡見学、を含めた)福岡オフ会スケジュール表、今年度の3回目の八幡市レク用にUSさんによって作成されたPDF資料を印刷したもの、及び、高場乱を紹介するネット上の長文文章のコピー、を、他の出席者全員に提供されました。
 このことだけではありませんが、改めて、御尽力に感謝申し上げます。
 余計なことながら、水鏡天満宮の廣田扁額の存在も、高場の塾跡碑の存在も、地元出席者である、Chase、YKご両名ともご存知なかったところ、地元の人だからこそ、そういったことはありがちでしょうね。
 もっとも、この二つ、観光名所と言えるほどの代物ではありませんが・・。)

a:これまで、自分は、日本の戦前史がすっきりしない気持ちでいたが、太田さんの最近の説明でようやく腑に落ちつつある。
 さて、日本は、手を組んだ英国に配慮して(アジア解放を掲げる)島津斉彬コンセンサスをオープンにできなかったという指摘が太田さんからあったが、英国ではなく米国と手を組む、という方法はなかったのか。
O:明治初期には、まだ英国が名実共に全球的覇権国だったから、米国ではなく英国と組んだのは正しかったわけだが、19世紀末には、「実」において米国の国力が英国を追い越し、第一次大戦が始まる頃には、そのことが誰の眼にも明らかになってきていた。
 しかし、その米国は、大戦中に日本と共にシベリア出兵をしたものの、すぐ手を引き、爾後、親ソ、つまりは、親露・・ロシアは日本にとって一貫して短/中期的には最大の潜在敵国であった(、しかも、その国がマルクス・レーニン主義を標榜して一層危険な存在になった)というのに!・・であり続ける。
 しかも、大戦後は、人種主義のこの米国で、日本移民排斥が始まる。
 そんな米国と手を組むことなど、日本政府として、到底できる相談ではなかった。
a:もう一つ、日本が「勝利を収め」て終戦になった時点で、杉山構想を明らかにしてもよかったのでは?
O:終戦の時点では、まだ、米国は中国国民党政権を支援していたことを思い出して欲しい。
 その後、米国は、同党への支援をとり止め、事実上、中国共産党支援に切り替えるのだが、杉山構想の存在を知ったら、国民党支援を続けたに違いない。
 その場合、共産党が支那の権力奪取に成功したかどうか、ということだ。
a:なるほど。
 しかし、少なくとも、例えば岩畔が、彼が亡くなるちょっと前くらいの頃にもなれば、杉山構想を明らかにしてもよかったのではないか。
O:だって、アジア解放こそ杉山の存命中にほぼ成就したけれど、アジア復興は現在進行形だったわけで、そんな時点で明らかになんかできたはずがなかろう。
 いや、現時点でも全球的覇権国は依然米国であって、そういう意味ではまだアジア復興はなっていない。
 だから、私自身、杉山構想を明らかにしていいものかどうか、暫時、真剣に考えたくらいだ。
 で、考えた結果だが、私が、岩畔らほど人間ができていないということなのだろうが、しゃべりたいという思いの方が勝って、明らかにしてしまい、慚愧に堪えない思いだ。
a:明らかにしても、さすがにもう、大丈夫では?
O:いや、殆どありえないことではあるが、杉山構想を知った米国が呼びかけて、ロシア、EUを含めた対中包囲網ができたらどうなる?
 (中共は核も持っているし、)軍事力行使はないだろうが、経済封鎖という手はある。
 ところで、杉山構想を秘匿し抜いた岩畔だったが、晩年、息子さんと一緒に、インドカレー屋の銀座「ナイル」をしばしば訪れてカレーを食べたらしい。
a:そのココロは?
O:欺騙工作としての日米交渉をやりながら、岩畔は、対米英開戦の後、マレー・シンガポール攻略を(連隊長達の一人として)行って英印軍を降伏させた上で、岩畔機関の長になって、今度は降伏したインド人兵でもってインド国民軍を作る、というプランの最終的な詰めを行い、そのプランを対米英開戦後に実際に実行に移し、その結果、インド独立をもたらすことに成功したわけであり、その達成感に、ナイルをしばしば訪れつつ、彼は浸った、ということだろう。
 
(続く)