太田述正コラム#10493(2019.4.14)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その32)>(2019.7.2公開)

3 元極東裁判裁判長W.F.ウェッブが寄せた序文

 ・・・審問が開始される前、私は、専制君主である天皇は、一見して明らかに、戦争の許可に責任があるとする見解をもち、私の政府の要請にもとずき、そのように意見をのべた。そして、もし天皇が告発されたら、そのような予断の持ち主であるがゆえ、私は判事の地位を辞さねばならない、と付け加えた。審問で明らかにされた証拠は、私の事前の判断を支持しており、天皇は戦争に許可を与え、したがって、それに責任を負うことを示していた。

⇒昭和天皇は、彼の即位当時の明治憲法の公定解釈と彼自身の信念に基づき、専制君主として行動するようなことは基本的になかった(典拠省略)のですから、「専制君主」としたウェッブの見解は誤りです。
 (但し、下出参照。)(太田)

 天皇についての疑問は、被告への処罰を与える段となった際、重要な問題となった。被告が命令に服従する部下でしかない限り、そして、その指導者が審問を逃れている限り、処罰の決定にあたっては、強く、酌量すべき情状が考慮されなければならない。検察側の証拠には、天皇は戦争を不承不承に承認したと解釈するよう余地が残された。私は、こうした証拠の解釈に完全に納得してはいなかったが、それは何がしの検討の価値は持っていた。

⇒参謀本部及び軍令部の長としての昭和天皇に関しては、両部における部下達は天皇の命令(軍令)に服従する立場にあり、その限りにおいて、天皇は、責任を負う立場にありました。
 しかし、当然のことながら、そのレベルにおける命令に国際人道法違反のものなどなかったはずです。(太田)

 天皇の内大臣、木戸侯爵の日記の、1941年11月30日の箇所に、天皇は戦争をいくらかの躊躇をもって許可したと記録していた。それはまた、この躊躇は、彼の平和への固執によるものではなく、敗戦への恐れによるもので、天皇は、海軍大臣と海軍参謀長による「全面的保証」を求めることによってその恐れを晴らしていた。

⇒それより前の10月18日に東條英樹が首相に就任しますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
「内閣組閣後の東條の態度・行動<が>、・・・戦争回避を希望する昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとした」ものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
ことはよく知られており、それが「<天皇>の平和への固執によるものではなく、敗戦への恐れによるもの」とするウェッブは、裁判官らしくない先入観に満ちたものである、と断ぜざるをえません。(太田)

 1941年当時の首相で、また同法廷の被告の一人、東条元帥は、最初、天皇の意思には決して反したことはないと証言し、そしてさらに証言席に立ち、戦争を許可するよう天皇を最大の努力をはらって説得したと付け加えた。

⇒東條の最終階級は大将であり元帥・・まさか、誤訳ではないではないでしょう・・ではありません。
 ウェッブは、裁判官どころか、法律家として求められる最低の事実確認すら怠る人物であったようですね。(太田) 

 だがこのいずれの発言も、木戸侯爵の日記の趣旨に、大きな付加を与えるものにはならなかった。
 1936年当時の首相で、軍部過激派による暗殺をかろうじてまぬがれた岡田海軍大将は、天皇は平和の人だとする趣旨の証言を行った。被告席に天皇がいたなら、岡田の証言は、天皇の本来の性格に触れるものとして、刑の軽減に役立ったであろう。
 天皇が有罪か無罪かについての判断は、この法廷の対象外のことであったので、そうした断片の証拠は付随的なものだった。それでも、検察側は、告発されている犯罪を始めるにあたっての被告の権限について、疑問をなげかけるきっかけとなった。不公正の根を取り除くため、私は、どの被告にも極刑を科さず、代わって、日本国外のしかるべき場所での、厳しい条件での投獄を求めた。しかし、被告のうちの七人には絞首刑がくだった。
 私は、死刑が明らかな過剰とは判断できなかったので――オーストラリアの最高裁で採用される上告の審査基準にてらし――、自分の異論を主張せず、死刑あるいは投獄との判断が決まった。
 『天皇の陰謀』は、松井石根の絞首刑がありえた除外として、そうした判決のいずれもが誤判決ではなく、死刑となった者らは、ほしいままの殺人や野蛮行為の防止を怠ったことを悔いていたとしても、その責任があったことを再び確証したものである。
 天皇自身については、米国と連合軍それぞれの政府の高度な政治レベルにおいて、審問せずという判断に達した。天皇のケースに関するオーストラリア政府よりの求めにも、私は、政治的、外交的レベルにおいて取り扱われるべきであると助言した。
 民主的政府の連合軍が、生命や資産を費やして専制政府に対する戦争をおこし、その結果、その政府の専制の主をいまだその指導者の地位に残すというのは、実に奇異なことと思われる。

⇒日本が「専制政府」だったというのは誤りであるわけですが、少なくとも、ソ連が「民主的政府」だというのは、言語道断、というか、噴飯物、でしょう。(太田)

 しかし、裕仁は、単に個人であるばかりでなく、象徴であった。個人的にはとがめられるべきではあったが、しかし、彼は、その国全体の精神的体現であった。1945年、日本人の大多数は、宗教的信条として、天皇と日本は不可分で、共に生きるか、共に死すべきであると信じていた。

⇒天皇制の重要性の認識は、歴史に根差す正しい認識なのであって、断じて宗教的信条などではありませんでした。
 まあ、不勉強なウェッブに、そんなことを言っても詮無いことですが・・。(太田)

 私が東京法廷の席にあった30ヵ月の間、日本の君主を案じそして尊敬する証言と、そのケースを弁護する熱心さと正直さに、私はたびたび感動させられた。私は幾度となく、1941年に日本が戦争にうったえたことを告発することが正しいのかと自問した。日本は九千万人の人口をかかえる小国で、しかもその15パーセントしか耕地はなく、まして、外からの厳しい経済封鎖をうけていた、という弁護側の主張に、私は、おおくの正義と酌量の余地を覚るようになった。米国や英国なら、そして米国や英国の国民なら、そうした状況に、どう反応したであろうかと考えた。そして私は、一世紀前、ロンドンの法曹協会で、ダニエル・ウェブスターが行った演説を思い出した。この著名なアメリカ人法学者は、小国イギリスが偉大な帝国に拡大したことに、以下のような言葉をもって喝采をおくっていた。
 英国の朝の鼓動は太陽の栄光とともに始まり、時の女神を友とし、軍事的威風もつ英国の不断の血統は地球をおおう。
 拡大は、そのすべてが、平和的交渉の結果によるものではないのである。
 20世紀になるまでは、戦争に訴える権利は、敗戦の恐れによる抑制はあるものの、あらゆる国家によって実行される主権のひとつであった。敗戦国は、金あるいは領土による賠償を払い、勇猛果敢という荒々しいルールが、国際的な正悪の判断に持ち込まれていた。しかし、第一次世界大戦の後、列強国は、誰が戦争を開始したかを判断するさいに用いられる、戦争行為の基準や国際法の原則にそうよう努力するようになった。そして1928年には、63カ国が、自衛を除き、手段として戦争に訴える政策を有罪とするパリ条約に調印した。日本は、こうした諸国のひとつであった。しかし、日本政府は、署名国に、日本は帝国君主の名において署名するのであって、他国のように、国民の名においてするものではない、と断言したのであった。
 パリ条約は、もしある国が同条約を犯して戦争を始めた場合、署名国の戦争指導者が個人として責任をもつと明確に規定はしていなかった。著名な国際的法律家の幾人かは、この条約は個人的責任を科すものではないとの見解を示した。しかし、私は、違反しても個人は罰せられない国際法に署名したという無益を63カ国に帰させることはできなかった。

⇒立法論としてはありうるけれど、解釈論としてはありえない、法律家失格の主張です。
 そして、もちろんのこと、ウェッブには、この条約そのものが、杉山元らに戦争を決意させた重要な諸要因の一つであった、ということなど、想像もできないことでしょう。(太田)

 ともあれ日本は、1945年9月2日、裕仁天皇に代わって署名された降伏文書のなかで、連合国が国際法に反する犯罪として、日本の戦争指導者を個人として訴追する権利があることを明確に認めた。

⇒当時の日本政府の念頭にあったのは、国際人道法関係の諸「罪」だけであったはずです。(太田)

 天皇の内大臣、木戸侯爵の1945年8月の日記には、裕仁は、「戦争犯罪」が戦争にかかわる、彼を入れたすべての人を含むことを理解していた、と記している。
 簡潔に言って、以下が東京法廷が始まった段階での法的位置であった。つまり、もし日本に、パリ条約および署名した降伏文書に言う侵略戦争の罪があるとするなら、政治的、軍事的、およびその外の指導者は、個人的に責任が問われうる。

⇒繰り返しますが、これは、立法論に過ぎません。(太田)

 その際の唯一の弁護は、それが「自衛」であったかどうかである。

⇒ウェッブの妄想の続きでしかありません。(太田)

 同法廷は、この弁護を取り調べ、それを拒否し、自衛は不成功に終わった。
 日本は、タイやフィリピンといった国を、日本によって脅かされたわけではなかったと反論した。要するに、日本がおこした戦争は、その当然たる目的が賠償や領土割譲であるものとしての、単なる国の行為ではなかった。それは、その国の指導者が犯罪者として罪をおう、国家の不法行為であった。

⇒このくだり、翻訳のせいでしょうが、意味不明です。(太田)

 2年半にわたる、賛否両方の証言の後、同法廷もそのように判断した。温情ある判決として、情状酌量された25ケースのうちの18ケースに、投獄のみが科された。そのほかの7ケースには、証拠にのっとり、被告は、侵略戦争ばかりでなく、よく統制のとれた日本軍部隊を、戦闘区域以外の場所での、略奪、強姦、殺人に加担することを許す指導を行ったという面でも責任を負うとの理由で、極刑が下された。

⇒結果として、(良心の呵責からか、)前者(「侵略戦争」)だけの理由で極刑が科された事例はゼロだったことを我々は知っています。(典拠省略)。(太田)

 文章上の表現はないものの、天皇の訴追なくして、日本の指導者の死刑判決をすべきでない、というのがバーガミニ氏の見解である。私は、たとえそれに同意しないにせよ、その見解に共感を抱く。バーガミニ氏の見方では、天皇は、現実に対する、理論的で、科学的で、研究没頭的な理解力を持っていた。氏が言っているように、天皇はあやつり人形ではなく、有能でエネルギッシュな人物で、力強く、知的な指導者であった。しかし、天皇は、彼に仕える大臣たちの上にそびえる世界に暮らしていた。彼は、善良な国民のために、国を愛し、自己犠牲の精神をもって行動しているかのようであった。彼は、タカ派の役を演じて、1941年以前の数十年間、西洋に対する戦争を企てたかもしれなかった。しかし、私は、裕仁が1946年から48年の間に被告席にあったとしても、他のほとんどの日本の指導者のもつ人格より、より高いものを見出していたかは疑わしい。いみじくも、裕仁の価値は、今日のこの国の地位より出てきているもので、彼の治世のもと、戦争と敗戦を克服し、世界第三位の産業国となったのである。・・・

⇒これは、バーガミニが触れていない、しかし、重要な指摘です。
 ウェッブ自身は、その重要性に気付いていないでしょうが・・。
 すなわち、誰に「責任」があろうと、それは、昭和の戦前と戦後にまたがる、一貫したものに係る「責任」なのです。(太田)

 バーガミニ氏は、裕仁が、日本をアジアを征服する構想と謀略に導いたと見るに充分な論拠を提示している・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_03_hajimeni.htm

⇒これも裁判官だった人物の言葉だとは思えません。
 バーガミニは、「充分な論拠<の>提示」に完全に失敗しているからです。
 いずれにせよ、天皇ならぬ、「杉山元らが、日本がアジアを解放し、復興へと導く、構想と謀略に導いた」、が、私見では正しい訳です。(太田)

(完)