太田述正コラム#10502(2019.4.18)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その8)>(2019.7.7公開)

 バジョットは、「旧き東の慣習的文明と新しき西の変動的文明との間に現存している最大の対照性」を指摘しています。

⇒三谷的なバジョット紹介を踏まえれば、私なら、「バジョットは、「自由な議論の慣習があったアングロサクソン文明とそれがなかった非アングロサクソン文明文明との間に現存している最大の対照性」を指摘しています。」と記したところですが・・。(太田)

 バジョットの場合、西の文明を代表する英国に対して、これに対峙する東の文明を具現していたのが当時英国によって植民地化されていたインドでした。・・・
 バジョットは、・・・「英国最高の知的能力をもつ<英国人>官僚たち」が書いたとされる報告の次のような一節を引用しています。
 ・・・インド人固有の生活は、あらゆる点で古代的慣習によって規制されているので、彼らは常に何か新しいものをもたらす政策を理解することができないのだ。
 彼らはその政策の根底に彼らを快適にまた幸福にしようとする願望があることを少しも信じない。

⇒インドにおける累次の大飢饉の際に餓死者救済になど関心を碌に示さなかった英当局者(典拠省略)「の政策の根底に彼ら<インド人達>を快適にまた幸福にしようとする願望があることを・・・信じ」ろという方が無理な相談だと思うのですが・・(太田)

 英国政府が「インド人の宗教を取り去る」ことを意図していること、一言でいえば、これらすべての継続的変革の究極目的は、インド人の現状と願望を否定し、インド人を何か新しいもの、現状とは異なるもの、その願望に反するものにすることであると信じているのである。・・・

⇒その400数十年前、「イギリス政府が「フランス人の宗教を取り去る」ことを意図していること、一言でいえば、・・・<その>究極目的は、フランス人の現状と願望を否定し、フランス人を何か新しいもの、現状とは異なるもの、その願望に反するものにすることであると信じて」、ジャンヌ・ダルクが、神のお告げを受け(!)、百年戦争下、イギリスに征服される寸前であったフランスを救った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF
ことを思い起こさせます。
 上記言い換えは、こじつけでも、いわんや、冗談でも、ありません。
 このジャンヌは、フランスとイギリスとの間の短い休戦中に、チェコを拠点とするフス派に、「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」という書簡を書き送っています(上掲)が、フスは、イギリスの「ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し」た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B9
人物であり、彼は、カトリシズムの堕落に対する批判を標榜しつつ、私見では、ウィクリフ同様、反カトリシズム、ひいては反キリスト教、更に言えば反一神教、的な性向を持っていたのであり、ジャンヌはそんなフス派の人々に回心か火刑かの二択を迫ったわけです。
 (イギリスは、捕らえられたこの「野蛮人」ジャンヌを、イギリス領フランスの買弁カトリック「野蛮人」司教たる裁判長の下での異端審問にかけて火刑に処しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 
 これ以上露骨な、フランス人達に対する侮辱、というか、侮蔑意識の表明、はないでしょう。)
 このような、率直極まる「前近代」イギリス人達とは様変わりの、韜晦好きの「近代」イギリス人の典型であるバジョットは、フランス人を持ち出すことの「危険性」を自覚していたが故に、「安全牌」のインド人を持ち出した、ということなのです。
 三谷は、自分達イギリス人以外の全人類を野蛮人視したに等しい、かくも傲岸不遜なバジョットに、全面的な共感を寄せて、本当によろしいのですかねえ。(太田)

 ここで含意されているのは、「旧い東の慣習的文明」から「新しい西の変動的文明」への移行、すなわち「前近代」から「近代」への世界的規模における移行が、西の文明圏による東の文明圏の植民地化を通して行われるという命題です。
 バジョットもまたこの命題の真実性を信じていました。
 英国に出現した「議論による統治」を指標とする「近代」概念は、同じく英国が主導力となった植民地化による「近代」概念を含んでいたのです。

⇒私が、イギリスを「変動的文明」とは見ていない、という、以前から申し上げている話・・英国は最初から「近代」であったという話・・は、機会があれば、後で、改めて取り上げることにしますが、三谷の言うように、「近代」の重要な指標が「議論による統治」であるとするならば、「議論抜きによる統治」であったところの、イギリスによる、インド等の植民地統治が、一体全体、どうして、インド等の「「前近代」から「近代」への・・・移行」なのか、私には、さっぱり呑み込めません。(太田)

(続く)