太田述正コラム#10536(2019.5.5)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その13)>(2019.7.24公開)

 欧米における最もすぐれた日本史家の一人であり、その先駆者的存在であったジョージ・サンソムという英国人歴史家がいます。
 サンソムは、戦前の日本に外交官として30年以上の滞日経験をもつ有数の知日家でしたが、戦後の1950年12月に東京大学で行った「世界史における日本」と題する一連の連続講義の中で、ヨーロッパ(とくに英国)と日本とを比較し、1600年以降、主として両者の政治的発展に分岐を生じさせた要因が何であったかについて述べています(『世界史における日本』大窪●<(げん。原の下に心)>二<(注6)>訳、岩波新書、1952年、G.B.Sansom, Japan in World History, edited with notes by chuji Miyashita, Kenkyuusha, Tokyo 1965)。

 (注6)「1915年秋田県に生れる。日本太平洋問題調査会の事務局を経て、1980年まで駐日カナダ大使館に勤務。1986年歿。著書”Problems of the Emperor System in Postwar Japan”(1948)”Japanese Communist Party”(1969、共著)。編訳書『ハーバート・ノーマン全集』(1989、増補版、岩波書店)。訳書 サンソム『世界史における日本』(1951、岩波新書)ファイス『真珠湾への道』(1956、みすず書房)ダワー『吉田茂とその時代』(1991、中公文庫)他。」
https://www.msz.co.jp/book/author/14398.html

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[太平洋問題調査会について]

 太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations=IPR)の「設立の背景となったのはハワイにおけるYMCAの国際連帯運動である。YMCAのメンバーは1925年6月、IPRを結成してホノルル会議(第1回太平洋会議)を開催したが、この会議中の7月11日にIPRを常設機関とする決定がなされ、正式発足となった。
 IPRの組織は、ホノルルに設置された国際事務局・中央理事会と、各参加国に設置された国内組織から構成されていた。国際事務局と中央理事会は、調整をすすめほぼ2~3年おきに「太平洋会議」と呼ばれる国際大会を欧米(アメリカ・カナダ・イギリス)・アジア(日本・中国・インド・パキスタン)の各地で通算13回(戦前(日米開戦以前)7回、戦時中2回の開催をはさんで戦後4回)にわたり開催、毎回各国政府が会議の動向に注目するほどの影響力を持った。また1928年に創刊された中央機関誌『パシフィック・アフェアーズ』や、支部刊行物を含む多くの書籍・パンフレットを刊行しアジアに関する知識の普及を進めた。
 IPRに結集したのは主として自由主義的・国際主義的な知識人であり、発足当初からの参加国は環太平洋地域に位置するアメリカ・日本・中国(中華民国)・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの6ヵ国であった。のちにこの地域に勢力圏を有するイギリス・フランス・オランダ、および米国との国交を樹立して以後のソ連が参加し、さらに当時植民地支配下にあった朝鮮(日本領)・インド(英領)・フィリピン(米領)などからも参加者があった。当初運営の中心であったハワイ(YMCA)グループは政治問題よりも文化・経済問題の討議に重点をおくことを主張したが、最大の支部として力を持った米国IPRは財団からの寄附金を獲得するため時事・政治問題を積極的に取り上げるよう主張して対立、結局1929年の京都会議の前後から次第に主導権はハワイグループから米国IPRに移り、1933年には国際事務局もニューヨークに移転した。これ以降、環太平洋地域(特に東アジア)における政治情勢の緊迫化にリンクして太平洋会議での議論が次第に政治的対立を帯びるようになり、1939年以降の日本IPRの事実上の脱退・・・をもたらすことになった。
 第二次世界大戦後には、独立を達成したインド・パキスタン・インドネシアのIPR組織の正式加盟、また1950年のラクノー会議以降の日本IPRの復帰もあり、アジア諸国で勃興するナショナリズムの研究に力を入れた。しかしその反面、1949年の中国社会主義政権の成立で中国IPRはその会員が台湾・米国などに亡命したため解散することになり、1942年以降ソ連が太平洋会議に参加しなくなったこともあって社会主義国からの参加を欠くなど東西冷戦の影響を受けるようになった。そして、1951年から翌1952年にかけて最大の支部組織である米国IPRがマッカーシズムによる「赤狩り」の攻撃の標的となり、中心メンバーの一部(アジアのナショナリズム・民主化に対し理解ある態度を示したラティモアやノーマンなど)に個人攻撃が加えられた(このためノーマンは自殺)ほか、企業などからの財政的援助が激減して窮地に陥った。これらの結果、1961年10月に国際事務局は解散声明を出し公式解散のやむなきに至った。・・・
 <すなわち、太平洋会議は、>ラティモア、ノーマンなど数々のソ連のスパイである<と目される>共産主義者、中国<(国民党政権)>派がアメリカ国内の世論を日本人嫌悪と親中に誘導<し、>・・・ひいてはアメリカさえも赤化<する>・・・ため<の>活動の場としていた・・・<と言えよう。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BC%9A
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⇒私は、「世界史における日本」は、研究社版(原文版)を買って既に読み終えていますが、『西欧世界と日本』と併せ、次回の東京オフ会で「本格的」に俎上に載せる予定です。
 ここでは、翻訳者の大窪がハーバート・ノーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
と最も関係が深かったらしいことを踏まえ、大窪がサンソムの東大講演を翻訳出版したこと、更に遡って、サンソムが東大でレクを行ったことも、ソ連の陰謀の一環であった可能性・・杞憂だとは思いますが・・について、一言、三谷から言及があった方がよかった、と思います。
 なお、大窪の学歴が分かりませんでした。(太田)

 サンソムはそれを「自由主義的伝統」(liberal tradition)の有無、とくに議会の発達が作り出した「少数者の権利と意見を尊重する一定の伝統」ひいては「各個人が他の個人の意見や行動の自由をある程度尊重する」伝統の有無に帰着させました。
 それはバジョットによれば、ヨーロッパの「前近代」が有した「議論による統治」の伝統です。
 サンソムはそれによって「封建制度から中央集権的王政に、中央集権的王政から議会政治への変遷が英国の政治生活に起った」と説明しています。
 16世紀から18世紀にかけて、このような政治的発展は英国のみならず、オランダやフランスのようなヨーロッパ諸国でも進んだのですが、それは同時代の日本には見られなかったのです。
 このことはサンソムによれば、当時の日本人に政治能力や政治思想が欠けていたからではありません。
 逆にサンソムは当時の日本人の秩序形成能力や政治についての深い哲学的関心を高く評価しています。
 行政技術において日本人は他国民に卓越していましたし、政治哲学の探求においても同様でした。
 「徳川将軍時代の日本の政治はどこから見ても秩序と規律の奇蹟であって、たまたまそれを目撃した少数の外国人から多くの賞賛を博した」とサンソムは述べています。
 たしかに徳川支配体制の政治は過酷な面をもっていましたが、それは同時代の英国の政治についても同様であったとサンソムは見るのです。・・・
 英国の宗教勢力のような有力な対抗勢力をもたなかった日本の中央集権的な支配と宗教勢力を含む有力な対抗勢力からの不断の挑戦にさらされた英国の中央集権的支配との強度差が、それぞれの「前近代」から「近代」への政治的発展に質的な差異をもたらしたと考えられるのです。

⇒サンソムの主張がバジョットの主張を下敷きにしたものであることが分かりますが、当然のことながら、私が行ったバジョットに対しての批判は、サンソムに対しても当てはまります。
 なお、最近私の頭の中を過り始めた取敢えずの仮説は、ノーマン/丸山眞男が戦後日本の「左」の世界観を、サンソム/辻清明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%B8%85%E6%98%8E_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E8%80%85) 
・・辻の行政学の単位を私は取っています・・が戦後日本の「右」の世界観を、それぞれ形作った、というものなのですが・・。(太田)

(続く)