太田述正コラム#10548(2019.5.11)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その17)>(2019.7.30公開)

 しかし同時代の英国の「貿易」には、後年の英国の経済史家が「自由貿易帝国主義」<(注9)>と呼んだような側面があります。

 (注9)The Imperialism of Free Trade。「ジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンは・・・1840年代〜60年代のヴィクトリア朝中期の<英国>の対外進出政策・植民地政策<について、>・・・小英国主義的な植民地放棄論がこの時期の主流であったとする従来の見解に異議を唱え、”The Economic History Review” 第2期6巻1号(1953年8月刊)に掲載された共著論文「自由貿易帝国主義」において、この時期の非西欧地域に対する<英国>の進出政策には2つの形式が存在していたと主張した。すなわち一つは「公式帝国」(Formal Empire)であり、植民地化あるいは直接の支配であり、もう一つは「非公式帝国」(Informal Empire)であり、植民地化まで至らない、主として経済進出の形で現れた影響力の拡大である。そして対外進出の経費を考慮し、できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていたとした。これにより、従来の「貿易すれども統治せず」のテーゼは「できる限り非公式なコントロールでの貿易、やむを得ない場合は支配をともなう貿易」と修正されたのである。
 この学説によれば、1830年代〜50年代に3期にわたって外相を務め、その後60年代に至るまで2期にわたり首相を務めた自由党出身の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、典型的な自由貿易帝国主義の外交家・政治家であったと評価される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 ギャラハー(John Andrew Gallagher。1919~80年)は、ケンブリッジ大学生当時に先の大戦に陸軍兵として従軍、同大フェローを経て、オックスフォード大英コモンウェルス史教授、更に、ケンブリッジ大大英帝国史・同海軍史教授。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Andrew_Gallagher
 ロビンソン(Ronald “Robbie” Edward Robinson。1920~99年)は、ケンブリッジ大学生当時に先の大戦に空軍兵として従軍、同大フェローを経て、ギャラハーの後任のオックスフォード大英コモンウェルス史教授。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_Robinson

 すなわちそれは、後進国に対する不平等な通商条約を通して、相手国側に関税や領事裁判権などの不利な通商条件を課し、自由貿易の拡大による不当な収益を追求する方法です。

⇒ギャラハーとロビンソン以前に、「自由貿易帝国主義」的な概念に独自に到達した日本人の政治学者や経済学者やイギリス近代史学者がいなかったことがむしろ私には信じ難いのであって、まことに歯痒い思いがします。(太田)

 またバジョットが強調した「植民地化」に伴う文化変容は、植民者が原住民の文化を尊重したことの結果ではなく、植民地帝国による政治的軍事的経済的支配の結果であったことは厳然たる事実です。
 しかしそれにもかかわらず、19世紀後半に提示された英国を中心とするヨーロッパについてのバジョットの「近代」概念は、まさにそれをモデルとして同時代に発進し、進行した日本の「近代」形成の特質を考えるために意味のあるものだと考えます。・・・
 <以上のように、>バジョットの「近代」概念は、「議論による統治」を中心概念とし、「貿易」および「植民地化」を系概念とするものでした。
 これを通して、東アジアにおいては最初で独自の「議論による統治」を創出し、また東アジアにおいては最初で独自の「資本主義」を構築し、さらに東アジアにおける最初の(そしておそらく最後の)植民地帝国を出現させた日本の「近代」の意味を、以下・・・問うていきます。

⇒日本が「独自の」「議論による統治」、「資本主義」を創出/構築できたのは、そのそれぞれのプロトタイプを日本が明治維新までに既に「創出/構築」していたからですが、三谷はそう言いたくないようです。
 また、日本の「植民地帝国」は、まさに、明治維新後、新たに「創出/構築」されたものであるところ、三谷は、それにも、「独自の」という修飾語句を付けるべきでした。
 というのも、経済目的や威信目的であったところの、近代以降の欧米の「植民地帝国」とは異なり、安全保障目的であったからですし、ロシアに関しては、その「植民地帝国」は、同じく安全保障目的であったものの、日本の場合、台湾に関してはともかく、朝鮮半島と満州に関しては、領有するに至ったのはやむを得ない理由で、日本政府が当初の予定を変更した結果だからです。(太田)

(続く)