太田述正コラム#10588(2019.5.31)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その37)>(2019.8.19公開)

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[帝国陸軍から目を背ける三谷]

 日本の近代についてのこの三谷本が、これまでのところ、帝国陸軍を近代化勢力としての観点から全く取り上げていないのはどういうことなのか。
 卑近な例を挙げれば、いくら、三谷が、何でも財源のことをまず考えることが習性となる官僚経験が彼にはないとはいえ、蝋山が、1933年、創立者たる後藤と共同で昭和研究会の綱領を作ったほど、同会に入れ込んだところ、同会の資金源が陸軍の機密費である可能性にどうして思い至らないのだろうか。
 (当時はパソコンもインターネットもなく、従って、議論をするにはいちいち集まらなければならず、また、紙が正確なコミュニケーション媒体として必須であったことから、メンバー達やゲスト達や事務担当者達のための旅費・謝金、及び、議論を行う場所の借り上げ費、議論の際の茶果代、更には、議論の叩き台や成果の書き起こしや印刷ないし謄写刷り、等の経費が相当かかったはずだが、これが何年も続いたわけだ。
 少なくとも、三谷は、その資金源に関心を抱いてしかるべきだったと思う。)
 確かに、蝋山は、1936年の「二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載するなど、軍部に対して批判的な姿勢を見せた」ことがあるし、「1939年4月に行なわれた東大経済学部の人事処分(平賀粛学)をめぐり、親交のあった河合栄治郎が休職処分とされたことに殉ずる形で抗議の辞任を行」っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%81%93 前掲
ことから反陸軍的であったように、一見、見えるけれど、前者に関しては、詳細は詳らかにしないが、蝋山は、どうやら基本的に、当時、参謀次長であった杉山元と同じスタンスを採ったに過ぎないようであるし、後者に関しては、粛学を断行した平賀は、東大(工)卒の海軍技術中将あがりの工学博士であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E8%AD%B2
軍部出身者とは必ずしも言い切れないし、そもそも、陸軍とは関係がない。
 だから、むしろ、蝋山が、「1942年<に>大日本帝国陸軍第十四軍<(注44)>(フィリピン占領軍)最高顧問に就任<した>・・・村田省蔵<(注45)の下で、>・・・軍部と独立した形で、経済の対米従属からの脱却や中産階級育成等、フィリピン施政方針を構想<するために>組織<された>・・・比島調査委員会<で>、・・・東畑精一・・・末川博<ら、他の5名と共に>委員<を務めた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%9C%81%E8%94%B5
ことに注目すべきであり、蝋山が、そこから、極めて親陸軍的な人物であったことが見て取れるのだが・・。

 (注44)「1941年(昭和16年)11月6日に南方軍隷下の軍として設置され、フィリピン方面を作戦地域とした。1944年7月に第14方面軍に改編昇格した。・・・<歴代の>第14軍司令官<は、>本間雅晴 中将:1941年11月6日 -・・・田中静壱 中将:1942年8月1日 -・・・黒田重徳 中将:1943年5月19日 -・・・<だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC14%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
 (注45)1878~1957年。「東京府尋常中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)<等>を経て、1900年高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。・・・
 1900年大阪商船(商船三井の前身)入社。同副社長等を経て、1934年同社長就任。1937年日中戦争の勃発に伴い、海運の戦時体制確立を主張し、海運自治連盟を結成して、自ら理事長に就任した。1939年貴族院議員。1940年逓信大臣兼鉄道大臣。・・・1943年初代駐フィリピン特命全権大使に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%9C%81%E8%94%B5 前掲

 蝋山が比島調査委員会の委員になった時の第十四軍司令官の田中静壱中将が杉山元の懐刀であったと私が見ている(コラム#10448)ことも、この際、思い出して欲しい。
 (これは、蝋山達自身が昭和研究会で提起した国民協同体論の実践といったところだが、蝋山は、「1942年4月の翼賛選挙では近衛<ら>の勧めを受けて推薦候補として群馬二区に立候補、衆議院議員に当選」している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%81%93 前掲)
 以下、蛇足だ。
 「蝋山<は、>・・・1947年には公職追放を受けたが、翌年には追放を解除された<ところ、>この追放にあたっては木村健康・丸山真男・辻清明らが追放解除の嘆願書を占領軍に送っている」(上掲)というのだが、蝋山の親陸軍姿勢は明らかであり、だからこそ、彼はGHQによって追放されたはずだというのに、反軍感情の権化であった丸山が、そんな蝋山のためにこんな行動をとった所以は、蝋山が自分の大学学部の先輩でありかつ同僚であった、という、身内の論理から、としか考えられないところ、私の、丸山に対する負の評価が、このことで、一層深まったような気がする。
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(続く)