太田述正コラム#10608(2019.6.10)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その46)>(2019.8.29公開)

 「学制」の国家主義的側面が顕著に表れているのは、義務教育制を布き、それを教育の根幹として再重視したことです。・・・
 ただし就学率は男子は明治8年には50%を超えましたが、女子はこれに遅れ、明治10年代半ば頃までは25%を超えたことはありませんでした。・・・
 文部省が「学制」の実施の「着手順序」として、第二に「速に師表学校を興すべき事」としたのは当然でした。
 こうして1872(明治5)年に東京に師範学校が設立され、1874年には同じく東京に女子師範学校が設立されます。・・・
 「学制」の国家主義的側面の半面が、その個人主義的側面です。
 教育の目的における個人主義と内容における実学<(注48)>主義といってよいでしょう。

 (注48)「実生活に役立たせることを目的とした学問のこと。工学・医学・薬学・農学・法学・経済学・教育学などを指す。日本の大学では、理学部と文学部で扱う学問分野以外は概ね実学である。より狭義には、応用科学を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%A6

 「学制」とともに公布された「被仰出書(おおせいだされしょ)」<(注49)>は、学校教育の目的について「人々自ら其身を立て、其産を治め、その業を昌(さかん)にし、以て其生を遂げ」るために、「身を修め、智を開き、才芸を長ずる」ようにしなければならない、と謳っています。

 (注49)「学制公布の前日にその趣旨を説明した太政官布告(学制序文,学事奨励に関する被仰出書ともいう)」
https://kotobank.jp/word/%E8%A2%AB%E4%BB%B0%E5%87%BA%E6%9B%B8-217959

 「学問は身を立るの財本ともいふべきもの」というのが基本命題です。
 要するに個人が「其生を遂げる」ことが教育の目的価値であり、学校はそのための手段価値(「身を立るの財本」)を提供することを任務とするというのです。・・・
 教育の内容は「日用常行言語書算を初め、士官農商百工技芸及び法律政治天文医療に至るまで、凡そ人の営むところの事」でなければならない。
 つまり市民生活に必要な「実学」でなければならないとされるのです。
 以上のような教育の目的とそれに沿う内容は、少なくとも事実上福沢諭吉をはじめとする明治初期の啓蒙思想の立場と合致しています。・・・

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[音楽と美術]

 「1872年、学制が発布されたとき小学校の一教科として定められた。ただしこれは外国の制度を模倣しただけで「当分之を欠く」という註がされていて有名無実な教科だった。教える教師も教材もなかったからである。・・・
 1879年、伊沢修二の主唱で文部省は音楽取調掛(のちの東京音楽学校)を創設した。まず、『小学唱歌集』が伊沢修二、メーソンらによって編集された。楽曲の多くは「蝶々」、「蛍の光」、「仰げば尊し」など外国曲に歌詞をつけたものであった・・・<が、やがて>瀧廉太郎などの日本人の作曲も増えてきた。・・・
 そして1907年、小学校令が改正されて初めて必須科目となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%B1%E6%AD%8C_(%E6%95%99%E7%A7%91)

 「画家や彫刻家などの専門家を養成する教育は古くから存在していたが,普通教育において美術の教育的価値を認めるようになるのは19世紀の終りころから20世紀にかけてである。・・・
 日本における普通教育としての美術教育は1872年の学制からであり、画学や罫画(けいが)が教科としてあげられていた。1881年の小学校教則綱領からは図画という名称が使用されるようになった。大正期に自由画教育運動が起こるまでの間は、鉛筆画から毛筆画への転換や手工教育の開始などの動きがみられるものの、実用主義を旨とし、手本を模写する臨画主義の教育が大勢であった。このような教育は美術教育ではないと、洋画家山本鼎(かなえ)によって非難されたのも理由のないことではない。日本美術教育史に期を画する自由画教育運動は彼によって提唱された。この運動によって、児童画の価値が認識されるようになり、子供の個性を尊重し創造性を育てていくことが美術教育の原理となった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E6%95%99%E8%82%B2-119730
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⇒本来はもう少し調べなければいけないのですが、当時の音楽・美術教育に係る上掲囲み記事を踏まえれば、学制/被仰出書、に言う、「其生を遂げる」ために教えられなければならないとされたところの、「凡そ人の営むところの事」の実態は、三谷が言うところの、福澤らが唱えた「実学」(の基礎)なんぞではなくて、欧米、恐らくはドイツ圏、における、教養主義に立脚していたと想像される、最先端の初等教育カリキュラムを直輸入的に継受し翻案したもの、であったのではないか、と、いう気が私にはしてきました。(太田)

(続く)