太田述正コラム#10606(2019.6.9)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その45)>(2019.8.29公開)

 地租改正とともに、比較的に質の高い豊富な若年労働力を供給することによって日本の初期資本主義化に貢献したのは、教育制度、とりわけ義務教育制度の確立でした。
 まず1872(明治5)年8月から1873年4月にかけて、「学制」と称される膨大な教育法令が発布されます。
 これらは文部省布達13号をはじめとする4つの文部省布達を総称するものです。

⇒ウィキペディアには、「学制(・・・明治5年8月2日太政官第214号)は、明治5年8月2日(1872年9月4日)に太政官より発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%88%B6
とあるのですが、三谷とウィキペディアの記述のこの大きな違いが何によるのか、分かりませんでした。(太田)

 「学制」の歴史的意義は、教育の理念として身分制を否定し、一方において国家主義を強調するとともに、他方において個人主義を謳い、かつ両者の結合を図ろうとしたところにあります。
 「学制」の立法の意図を説明した1872年の「文部省伺」には次のように記されています。
 「国家の以て富強安康なる所以のもの、…一般人民の文明なるによればなり・・・。」
 つまり一国の富強は一般人民個々の開明の度合いに係わるという認識です。

⇒「一般人民・・・の開明・・・度」を上げることのどこが「個人主義を謳」っていることになるのか、私にはさっぱり分かりません。
 なお、個人主義の本来の意味は、私の理解では、アングロサクソン文明独特であるところの、公序良俗に反しない限り、個人は自由に財産に係る処分ができ自由に結婚ができる、という観念を中核とするものの考え方である(コラム#省略)ところ、かかる意味での個人主義とは無縁のプロイセンで1807年に「逃亡しない従順な徴集兵候補を育てることを目標とした厳格な義務教育」が欧米で初めて始まったのに対し、イギリスでの義務教育の始まりは、日本のそれとほぼ同時期の1870年、と大幅に遅れた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99%E6%95%99%E8%82%B2
ことだけをとっても、いかに欧米における、近代教育(義務教育)とかかる意味での個人主義とが関係ないかが明らかでしょう。
 少なくとも、三谷は、彼にとっての「個人主義」の定義を示すべきでした。(太田)

 すでに戊辰戦争直後の1868(明治元)年12月の建言書の中で、・・・木戸孝允が「元来国の富強は人民の富強にして、一般の人民、無識貧弱の境を離れる能はざるときは、…世界富強の各国に対峙するの目的も必ず其の実を失ふ」と述べていますが、これは、まさに「学制」立法者の認識と合致します。

⇒木戸が、一般人民が「無識貧弱の境を離れる」(「開明の度合い<を上げる>」)ことが一般人民の「富強」に繋がる、と考えていたことは分かったけれど、これは、「「学制」立法者の認識」と微妙に違うように思います。
 もとより、どちらの認識も、本来の意味での個人主義とは何の関係もありませんが・・。(太田)

 また「学制」発布と同じ時期に刊行が始まった福沢諭吉の『学問のすゝめ』(1872~1876年)にも、「一国の富強」をもたらす前提として、「我日本国人」の「一身の独立」の必要が強調されています。・・・

⇒時間の節約のため、孫引きさせてもらいますが、『学問のすゝめ』には、「「一身独立して一国独立する」 。学問の目的は、まず第一に「一身の独立」にある。独立できていない人間は他人から侮られ軽んぜられるが、国家も同じである。国民が甘え・卑屈・依存心から脱却し、日本は自分たち自身の国であるという気概を持たない限り、日本は独立した近代国家として諸外国から認められることはない。「人民が無知・文盲ならば政府は威力で押さえつけることになる。よき政府は、人民の品性によって決まる」「圧制から逃れるには学問に志し、才能と品格を磨き、政府に対して同等の資格と地位に立つだけの実力を持つべし」「文明の外観はほぼ備わったように見えるが、それは政府が些細なことまで関わり、指示したからである。まるで人民は政府の居候(いそうろう)であり、政府への依存心はますます強くなっている。一国の文明は政府からではなく、庶民から生まれるものだ」」といった趣旨の記述がなされている
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4553
ところ、これも本来の意味での個人主義とは何の関係もないけれど、これぞ、「「学制」立法者の認識」そのものでしょう。(太田)

(続く)