太田述正コラム#10630(2019.6.21)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その57)>(2019.9.9公開)

 日本においても、1931年12月13日、井上準之助を蔵相とする若槻礼次郎<(注61)(コラム#3973、4610、5003、8450、8541、9971、10039、10042、10051、10364、10429)>民政党内閣に代って、高橋是清を蔵相とする犬養毅政友会内閣が発足するとともに、金輸出再禁止が決定されます。

 (注61)1866~1949年。越前藩系松平氏の松江藩の足軽の子。「明治15年(1883年)、陸軍士官学校<を>・・・受験したが、体格検査ではねられた。・・・帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。<(平均点を学生に開示していたということは、当時は東大法でも席次が分かったというわけだ(太田)。>・・・大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。・・・大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣とな<る。>・・・加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する<(第1次若槻内閣)>。・・・昭和金融恐慌が勃発した<のは彼の軽率な発言による。>・・・第2次若槻内閣・・・は昭和6年(1931年)4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により<日本は>深刻な不景気を迎えていた・・・柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには内務大臣・安達謙蔵が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒三谷に限らないのですが、金解禁にせよ金輸出再禁止にせよ、それぞれ、若槻(第2次)内閣と犬養内閣がやった、と、常に書くべきでしょう。
 (若槻と犬養がやった、と書いてもいいくらいです。
 同様のことですが、若槻(第1次)内閣の外相の幣原喜重郎
https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A4%BC%E6%AC%A1%E9%83%8E%E5%86%85%E9%96%A3-879833 前掲
・・加藤高明首相急逝を受けて内相であった若槻が首相になり、外相だった幣原がそのまま続投した、という経緯がある。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E5%86%85%E9%96%A3
がやった外交を幣原外交と称するのもおかしいのであって、若槻(第1次)内閣外交、ないしは、若槻外交、と呼ぶべきでしょう。)
 軍部大臣を除けば、閣僚を決めるのは首相であり、当時、蔵相を決めるにあたっては、金解禁や金輸出再禁止に対する候補者達のスタンスを念頭に置いたはずだからです。(太田)

 翌年1月28日の日中両軍の衝突から始まった第一次上海事変に起因する英米資本の日本からの離反と、同年2月9日の右翼テロリストによる井上の暗殺とは、日本における国際的資本主義の時代の終焉を意味するものであった<(注62)>といえるでしょう。

 (注62)「上海戦に対する英米など列強の反応は、満州事変に比べてはるかに強硬であった。これは上海をはじめとする華中における列国の利権が脅かされたためである。・・・上海事変を知ったJPモルガンのトーマス・ラモントは森賢吾へ次のように書いている。「上海事変はすべてを変えました。日本に対して、何年もかかって築き上げられた好意は、数週間にして消失しました。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

⇒前年の(帝国陸軍が引き起こした)満州事変では「英米資本の日本からの離反」が起らず、第一次上海事変の結果、起ったとするならば、一体それはどうしてか、を三谷に説明して欲しかったところです。
 後者の生起については、支那側に一義的な責任があり、日本は、自国の在住民保護、及び、事実上、日本以外の諸列強の権益保護のためにも出兵した(上掲)というのに、どうして、「英米など列強の反応は、満州事変<の時>に比べてはるかに強硬であった」(「注62」)のか、についての説明です。(太田)

 井上の没後、財政および経済リーダーとしての高橋の役割は必然的に大きくなりましたが、それは国際金融家としての高橋の復活を意味するものではなく、新しい装いの「自立的資本主義」を主導する国家資本の擁護者としての高橋の登場を意味したのです・・・。
 後年世界恐慌からの早期の脱出の実例を示した事実上の「ケインズ」理論を連想させる政策的対応として評価される高橋財政は、公共事業費の拡大や輸出力強化のための積極的支出において、明治初期の日本の「殖産興業」を推進した政府主導の積極財政政策への回帰であったといえるかもしれません。
 既に指摘したように、若き日の高橋は、大久保利通に始まる薩摩系の経済リーダーの「殖産興業」政策を貫く自立的資本主義の思想に深く共鳴していたからです。

⇒ここでも、井上を蔵相にしたのは若槻、高橋を蔵相にしたのは犬養、であることを思い出すべきでしょう。
 犬養も高橋も、私の言うところの島津斉彬コンセンサス信奉者であったのに対し、若槻も幣原も井上も、私の言うところの勝海舟通奏低音信奉者である、と、それぞれの経歴から私は見ています。
 だからこそ、犬養は高橋を蔵相にしたのですし、若槻は(第1次内閣の時に)幣原外相を留任させ、(第2次内閣の時に)井上を蔵相にした、のです。
 付言しておきますが、島津斉彬コンセンサスは、内政に関しては、単純化して言えば、軍事力整備のための基盤としての殖産興業の推進、というものでした。
 大久保も松方も、そして、犬養/高橋も、同コンセンサス信奉者として、そうした、ということです。(太田)

(続く)