太田述正コラム#9082005.10.14

<ペロポネソス戦争(その1)>

1 始めに

 ペルシャ戦争(三回に分けて、前492年?479)やアレキサンダー大王による征服(前334年?前323)については、これまで(コラム#867869で)触れたことがありますが、その間にアテネとスパルタの間で起こり、30年近く続いたペロポネソス戦争(Peloponnesian War431?前404)には、今まで触れたことがありません。

 しかし欧米ではかねてより、軍人を志す者は、必ずこのうち最も重要であるペロポネソス戦争について、トゥキディデス(ツキジデス=トゥキュディデス=Thucydides。前460??前395年)の「戦史」(History)(注1)を用いて勉強させられてきたといいます。

 (注1)アテネの市民。424年にアテネの将軍の一人に選出されるも、敗戦の責任をとらされてアテネを離れ、以後この戦争の資料と証言を集め続け、これらの資料と証言を精査し取捨選択した上で、「戦史」を書き上げた。(http://www.wsu.edu:8080/~dee/GREECE/THUCY.HTM1013日アクセス)

そこで、最近上梓されたばかりのハンソン(Victor Davis Hanson)の本"A War Like No Other: How the Athenians and Spartans Fought the Peloponnesian War."を手がかりに、直接「歴史」の英訳にもあたりつつ、この戦争を採り上げることにしました。

 (以下、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/10/11/books/11grim.html?pagewanted=print1011日アクセス。以下同じ)、http://www.amazon.com/gp/product/product-description/1400060958/ref=dp_proddesc_0/103-2114514-9808650?%5Fencoding=UTF8&n=283155http://www.ashbrook.org/publicat/onprin/v11n2/hanson.htmlhttp://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Davis_Hansonhttp://www.nationalreview.com/hanson/hanson022103.asp、、http://www.nationalreview.com/hanson/hanson200312120835.asphttp://www.lewrockwell.com/callahan/callahan97.html、による。)

2 ペロポネソス戦争

 (1)アテネとスパルタ

 アテネは豊かな海洋勢力であり、三段橈(がい)大船(trireme)からなる艦隊を擁し、制海権を握っていたのに対し、内陸部にあったスパルタは、重装歩兵(hoplite)が密集陣形(phalanx)をつくって戦うのを旨とし、陸上を睥睨していました。

 すなわち、アテネは戦船300隻を擁し、30万人を超える人口と要塞化した港と広大な田園地帯を持ち、約200の朝貢従属ポリスを従えていた帝国であったのに対し スパルタはアテネの約130マイル南方の内陸部にあり、1万人の歩兵(市民は半分以下)が25万人の従属民と奴隷の上に君臨しており、周辺地域に覇権を打ち立てていたのです。

また、アテネは民主主義と文化的・政治的・自由主義を謳歌し、汎ギリシャ文化の中心であることを自認していたのに対し、スパルタは専制的で保守的であり、文化の香りなど全くしない存在でした。

この対蹠的なまでに異なった二つのポリスが、それぞれ同盟ポリス群を従えて死闘を演じたのがペロポネソス戦争なのです。

(2)戦争の原因

 トゥキディデスは、強大になりつつあったアテネ帝国に対するスパルタの恐怖だ、としています。このまま何もせずに抛っておいたら、いつかはこの帝国に飲み込まれてしまう、というさしたる根拠のない恐怖だ、というのです。

 (3)戦争の転回点

 トゥキディデスは開戦後20年経った頃、完全に膠着状態になっていたペロポネソス戦争の転回点となったのは、アテネの無謀なシシリー島への遠征であったと指摘しています。

 この遠征で、アテネは4万人の戦死者を出します。

 これを見て、ペルシャはスパルタ側に海軍力で加勢すればアテネを滅ぼすことができるかもしれないと考え始めましたし、中立のポリスはスパルタになびき始めます。また、アテネ帝国内の従属ポリスは、アテネに反旗を翻す機会をうかがうようになるのです。

 (4)ペロポネソス戦争とギリシャの黄金時代

 ペルシャ戦争でペルシャに勝利した前479年から始まったギリシャの黄金時代は、ペロポネソス戦争の間にアテネでその頂点を迎えます。

 トゥキディデスの「戦史」もそうですが、アリストパネス(アリストファネス=Aristophanes。前446??前385?年)の「アカルナイの人々」(Acharnians)、エウリピデス(ユーリピデス=Euripides。前480??前406?年)の「トロイアの女」(The Trojan Women)、プラトン(Plato。前427?前347)の「饗宴」(Symposium)、ソポクレス(ソフォクレス=Sophocle。前496?前406年)の「オイディプス王」(Oedipus the King)は、いずれもこの戦争を素材にしたか、背景として用いた作品であり、作者はみんなアテネ市民です。

 どうやら戦争こそ、古典ギリシャ人の創造的天才をを一挙に開花させた、と言ってよさそうです(注2)。

 (注2)紀元前5世紀のアテネは、その100年間のうち四分の三の期間、戦争を行っていた。どちらも哲学者であるところの、ヘラクリトス(Heraclites。前530? ?前475?)が戦争はあらゆるものの父だと言い、プラトンが平和は常態たる戦争からの逸脱現象であると言ったのは当然か。

しかし、この黄金時代も、前404年にスパルタが最終的にペロポネソス戦争で勝利を収めることによって幕を閉じます。

ペロポネソス戦争でアテネは合計10万人の戦死者を出しましたが、これは先の大戦時の米国にあてはめると、4,400万人の戦死者、ということになり、アテネが受けた打撃の大きさが推し量れます。

 黄金時代が終わり、理性の時代が狂気の時代に取って代わったことを象徴するのが、前399年のソクラテスSocrates。前470??前399年)の裁判と処刑です。

3 ペロポネソス戦争を通じて見たアテネと米国の類似性

 (1)始めに

 かつてトマス・ペインThomas Paine1737?1809年。米建国の父の一人で「コモンセンス」を執筆した)は、「ミニチュアのアテネを拡大したのが米国だ」と言ったことがあります。

ハンソンも、米国人とアテネ人は、どちらも「力持ちだが不安を抱いており、タテマエは平和主義者なのだが常に何らかの紛争に首を突っ込んでおり、尊敬されるよりは好かれたいと思っており、戦争の方が本当は得意なくせに芸術の才や文才を鼻にかける」点で似ている、と指摘しています。

 もう少し、そのあたりを探ってみましょう。

(続く)