太田述正コラム#10662(2019.7.7)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その70)>(2019.9.25公開)
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[教育勅語]

 「<支那>文化及び儒学においては、臣と民は全く異なる存在であった。「臣」とは朝廷に仕える士大夫即ち政府高官であり、「民」とは朝廷に統治される民衆であって、皇帝は臣の輔弼のもとに民を統治するものとされた。そのため、行動様式も倫理も、臣と民では根本的に異なっていた。例えば、国家が滅んだ際、民が新国家の民となるのは普通のことであったが、臣がそれを行うと「弐臣」として厳しく批判された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E6%B0%91
 「小室直樹曰く、 ・・・教育勅語の相手は「臣民」である。儒教では「臣」と「民」では権利も義務も異なる二重道徳であるが教育勅語は「臣民」の普遍道徳を説いている。<また、>儒教は五倫・・・を説く。この根本規範の第一規範(最重要規範)は「孝」(父子の親)であり「忠」(君臣の儀。帝への義務)は第二規範にすぎない<が、>教育勅語は、第一規範と第二規範の順位を逆転させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
 「<英国>では「<英>臣民(British subject)」は現在も公的に国民を指す語として使用され続けている表現である。<英>国民は依然として「王の臣民=王の保護と臣民の忠誠」という概念のもとにある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E6%B0%91 前掲

 かかる教育勅語は、儒学道徳が当然視されていた台湾の漢人系住民達や朝鮮の住民達には違和感があっただろうし、「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムル」は自分達には当てはまらないと思った、ということだろう。
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 異質面としては次のようなものがありました。
 ・・・朝鮮では・・・日本人と現地人との共学と認め<ないままでしたが、>・・・台湾では共学を認めました。・・・
 日本政府当局は、日朝共学とした場合、朝鮮ナショナリズムが日本人生徒に及ぼす思想的影響に不安感をもっていた<ようです。>

⇒このこと↑↓を疎明する典拠すら示していないのですから、三谷にも困ったものです。(太田)

 また・・・台湾には、高等学校令による高等学校(台北高等学校<(注81)>)の設置を認めたのに対して、朝鮮には<恐らく同じ理由で、>認めませんでした。・・・

 (注81)「台北高等学校は、1922年(大正11年)・・・設立された。・・・尋常科および高等科(文科・理科)が設置され、7年制であった。・・・東京帝大・京都帝大など内地の大学への進学者が多く、地元の台北帝大への進学者が少なかったために同大は予科を設置することになったとされる。」
 卒業生に、武谷三男、上山春平、邱永漢、李登輝、田代一正、大原一三、川崎寛治、有馬元治、佐伯喜一、小田滋、園部逸夫、らがいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C%97%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)

⇒卒業生に私が名前をよく知っている人、知人、お世話になった人が大勢いる・・引用したのはそういう人々のみ・・ことに感慨深い思いがしました。
 田代さんは大蔵官僚出身で防衛次官を務められたところ、防衛施設庁長官当時、スタンフォード大留学のための推薦状(私作成)にサインをもらった恩人ですし、有馬さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%85%83%E6%B2%BB
は防衛政務次官の時に接点がありましたし、佐伯さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%96%9C%E4%B8%80
は経済安定本部部員、防衛研修所長等を経ての野村総合研究所所長の時にお世話になりました。
 なお、田代さんについてのネット上の情報の乏しさ・・こういったもの程度↓・・
http://blog.livedoor.jp/santama55/archives/66068115.html
に、ちょっと気の毒な感じが・・。(太田)

 帝国主義の遺産を脱帝国主義の時代にふさわしい形でいかにして守るかという問題意識が、「同化」政策の根底にはあった。
 拓務省官制はそのような問題意識の所産だったのです。

⇒帝国主義の遺産を守るとか守らないとかいう話ではなく、日本が、その安全保障上確保する必要のある、山縣の言うところの、「利益線」、を引き続き守るためにはどうしたらよいか、という話でしょうに。
 三谷は政治学者たる歴史学者のはずなのに、安全保障に関心がない?、それとも安全保障音痴?
 恐らく彼も、戦後の(日本が米側の重要な一翼を担った)米ソ冷戦が日本の戦前の横井小楠コンセンサスの延長線上のもの、という認識が皆無なのでしょうね。(太田)

 ところで同じ問題意識に基づいて、1930年代以降に登場したのが、帝国主義に代わる国際政治イデオロギーとしての「地域主義」でした。

(続く)