太田述正コラム#10664(2019.7.8)
<映画評論63:バグダッド・カフェ(その1)>(2019.9.26公開)

1 始めに

A:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7
B:https://en.wikipedia.org/wiki/Bagdad_Cafe
C:https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1988-05-16-ca-1975-story.html
D:https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1988-05-04-ca-1910-story.html
E:https://www.nytimes.com/1988/04/22/movies/review-film-exotic-us-in-bavarian-perspective.html?mtrref=undefined
F:https://www.rogerebert.com/reviews/bagdad-cafe-1988

 「『バグダッド・カフェ』<(コラム#10659)>(原題:Out of Rosenheim、英題:Bagdad Café) は、 1987年制作の西<独>映画<で、>・・・ラスヴェガス近郊のモハーヴェ砂漠のうらぶれたカフェに集う人々と、そこに現れたドイツ人旅行者ヤスミン(ジャスミン)の交流を描く作品」です。
 監督は西独人のパーシー・アドロン(Percy Adlon)、脚本・制作は彼と奥さんで、[制作費わずか200万ドルで作られたもの] です。
 主演は、西独版渡辺直美といったところの、太った西独人女優のマリアンネ・ゼーゲブレヒト(Marianne Sagebrecht)(以上、A、及び、C([]内)、による)で怪演という表現がぴったりの名演です。
 筋は、この映画の英語ウィキペディア(B)をご覧ください。
 この映画は米国版は95分で西独版は108分(B)であるところ、私が見たのは米国版だと思われ、引用映画評群の中に、私が見た記憶のない場面への言及がいくつか出て来るものがあるのは、西独版をベースにしているのであれば、理解できるのですが、未だによく分かりません。

2 バグダッド・カフェ

 この映画、要するに米国文明と欧州文明の人種主義をネタにして作ったところの、米国の荒涼たる片田舎を舞台にした、ほっこりした気分にさせる喜劇である、というのが私の結論です。
 だからこそ、アドロンは、白人女性たる主人公とからむ、副主人公たる黒人女性を筆頭に、この副主人公の夫、息子、娘、及び孫、の計5人のほか、娘の男性たる遊び友達達、といった具合に黒人達を多数登場させるほか、副主人公経営のカフェ兼モーテルの料理人、及び、副主人公の雑用を喜んでやってくれる保安官、にアメリカ原住民を2人も登場させる一方、白人は、夫婦喧嘩をして冒頭だけで姿を消してしまう、主人公の西独人たる白人の夫、及び、カフェにやってくる客の中の白人達は別として、モーテルの長期滞在客たる男女、及び、カフェ兼モーテルの空き地に野宿する男性、の3人だけにとどめているのです。
 私は、この映画のエンディングだけは気に入らなかったのですが、それは、この映画の大部分は、主人公と副主人公が次第に友情を育んでいく過程を描いているにもかかわらず、この白人女性たる主人公が、このモーテルの長期滞在客たる白人男性のプロポーズを受け入れる、つまりは、白人は黒人と友情は育めても、結婚するのはやはり白人、というエンディングになっているからです。
 何が気に入らないか。
 この映画のネタが人種主義であることをわざわざ念押しをするなんて野暮、無粋だ、と思ったからです。
 一体どうして、人種主義をネタにしてこの映画が作られた、と言えるのかを申し上げましょう。
 その前に、映画を観終わってすぐ、上述の結論を私は下したところ、その後でEを読んだら、信じていただきたいのですが私自身は見た覚えがないにもかかわらず、主人公が上出の黒人達とアメリカ原住民達だらけの環境下で途方に暮れた時、踊るアフリカの土人達に取り囲まれてシチュー鍋の中にいる宣教師の自分を想像する場面が出て来る(E)、と、書いてあったのでびっくりしました。
 それなら誰でも同じ結論を出すじゃん、と、ガックリきたの何のって・・。

(続く)