太田述正コラム#10678(2019.7.15)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その76)>(2019.10.3公開)

 高田が、「東亜協同体論に於て、東亜協同体と称せられているものは、その実私が東亜民族といえるものに外ならぬ」というように、「東亜民族」イコール「東亜協同体」だという。高田が「東亜協同体」と言わなかったのは、先に引用したように、かれがこの「協同体」の語に込められた「組織論」優先の傾向に対して強く批判的だったからである。批判の要点は上に述べたように、「運命共同体」あるいは「協同体」としての日中関係は歴史的に存在しなかったからであった。以上のように見てくると、「東亜協同体論」に対する高田保馬の批判は、政策論的な批判以前に歴史認識の問題であった。しかし現実問題として、現代の日中、日韓関係におけるように、国際間の政策には歴史的な認識が重要ではある。またかれは、「地域的運命協同体」なる用語に強い違和感をもったのでもあった。『東亜民族論』の「自序」を、「明治年代に於ける先輩の正統的支那問題観を支持したいと思う」と結んだ高田は、あえて正論を述べたと言えるかもしれない。蠟山政道も尾崎秀実も、現下の中国の民族問題を対象にしていたのであって、歴史的な中国問題への言及、あるいは民族そのものの考察は考慮外であった。それは政治学者、ジャーナリストとしては自然でもある。しか<し>、高田には民族の成立、さらには諸民族の結合から融合に至る歴史的・社会学的考察があった。」

⇒アジア主義について、「欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した・・・アジア主義、または汎アジア主義(Pan-Asianism)<が、>・・・当初は大久保利通と李鴻章の約束に始まる日本と清・朝鮮との対等提携指向を指すものであった<ところ>、冊封体制下の朝鮮をめぐって江華島事件や壬午事変、甲申政変を経て起こった日清戦争で、アジア主義は主戦論と非戦論に分裂し、政府や国内の新聞も清への対外硬が主流となり、日清戦争以後・・・、元来のアジアとの平和協調路線(興亜論)とは完全に正反対のものになった。日露戦争以降・・・は、ロシア帝国に勝利して得た東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
というまとめ方があるが、このようなまとめ方の是非はともかく、「明治年代に於ける」アジア主義のうちのどれが高田の念頭にあったのかを、筆者が書いてくれていないので、コメントするのが困難だ。(太田)
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 「地域主義」論者は、国民国家の確立を志向する民族主義(ナショナリズム)がかつてヨーロッパ世界において果たしたような普遍的国際秩序原理としての歴史的役割を失ったと見ました。

⇒民族(ネーション)もまた、ごく少数の例外を除き、人為的にして歴史的なものであるわけですが、長くなり過ぎるので、ここでは立ち入りません。(太田)

 非ヨーロッパ世界において、日本が国民国家の建設に成功したのは、日本特有の幾多の条件に恵まれた結果であるとして、その例外性を強調しました。・・・
 「地域主義」論者によれば、<例えば、>中国民族が生きていくためには、民族を超えた日本を中心とする地域的連帯に目覚めることが必要であり、ここに彼らは日中戦争が戦われなければならない重要な理由を求めました。
 要するに、彼らによれば、日中戦争の終極の目的の一つは、民族主義の超克にあったのです。
 
⇒「清朝の政体は<漢族等の>五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベットの実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であると主張した。・・・1912年元旦に中華民国が成立した際に孫文<は、>南京で行った中華民国臨時大統領就任演説で・・・五族共和<を>・・・掲げ・・・、「漢満蒙回蔵の諸地を合して一国と為し、漢満蒙回蔵の諸族を合して一人のごとくする。これを民族の統一という」と・・・述べている<が>、孫文自身は<この>臨時大総統就任時<以外では、>北方で演説した際にしか五族共和には言及しておらず、北京政府と対決後は五族共和は誤りであったと主張し、もっぱら大中華主義による同化主義を進めていくようになる。<その>孫文は<、>そもそも五色旗を嫌い、国旗制定論争時には中国同盟会の青天白日旗を採用するように主張したが、却下され<、五色旗が>・・・1912年から1928年までの<間、使用され>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%97%8F%E5%85%B1%E5%92%8C
という、支那側にも(孫文らの)漢人民族主義を超克する必要があった、という事情についても三谷は説明しないと、読者を誤解させてしまいます。
 (こういうこともあり、再度繰り返しますが、三谷は「中国民族」などという、訳の分からない言葉を用いるべきではなかったのです。)(太田)

 さらに「地域主義」論者にとって、「地域主義」に対立する秩序原理は、民族主義とともに「帝国主義」でした。
 「帝国主義」は本来的に欧米帝国主義として考えられたのです。
 これが最終的に対米英戦争を正当化した「地域主義」の論理でした。
 「地域主義」論者の中には日本の大陸政策そのものの中に「帝国主義」的傾向を看取し、欧米帝国主義と区別される大陸政策、すなわち「民族が協同関係に立つ地域的運命共同体」を育成する政策を日本が準備する必要を説いたものもいました。
 しかし当時の「地域主義」の反帝国主義的側面は、圧倒的に欧米帝国主義を標的としており、自国の政策に対する批判としてはきわめて微弱でした。
 そしてその反民族主義的側面が事実上帝国主義的側面を形成していたのです。

⇒「帝国主義・・・<なる>用語の正確な意味は学者による議論が続いている。本来は列強による植民地主義を指して使用されたが、広義には単なる膨張主義や覇権主義を指して使用されている。また・・・レーニンは著書「帝国主義論」で帝国主義は資本主義の最終段階と定義した。複数の学者はより広義に、帝国の中心部と周辺部で組織された支配と従属のあらゆるシステムを説明するために使用しており、この定義では新植民地主義も含まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
という次第であり、新植民地主義だけは戦後生まれの概念なので除くとしても、「地域主義」論者達の間での帝国主義についての共通認識がいかなるものであったかを、三谷は書く必要があったのではないでしょうか。(太田)

(続く)