太田述正コラム#10702(2019.7.27)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その88)>(2019.10.15公開)

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[国家神道について]

〇国家神道マークI

 以下にざっと目を通していただきたい。

 「<支那の>律令では、祭祀所管庁が通常の官庁と同列に置かれていたが、日本律令は、神祇官を置くことで祭祀と政務を明確に分離した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
 「<その>神祇官<は、>・・・太政官より下位、八省と同等だった<ところ>・・・、平安時代後期には国衙と同等まで低下した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98

 「(律令祭祀制)<は、>7世紀末〜8世紀初頭の天武朝〜大宝年間にかけて形成され、神祇令を中心とした。・・・
一、神祇官による運営
二、年中4度の祭祀、つまり祈年祭・月次(つきなみ)祭・新嘗祭が中心
三、全国の官社を対象としてその祝部(はふりべ)が朝廷に幣帛を受け取りに来る幣帛班給制度があった。・・・
  (平安祭祀制)<は、>9世紀〜10世紀にかけて新たに形成された。・・・
・国家祭祀と天皇祭祀とが重なり合い、やがて天皇祭祀の性格が濃厚となる。
・律令祭祀制のもとでの全国の官社を対象とする幣帛班給制度から、新たな平安祭祀制のもとで京畿を中心とする十六社やのちに二十二社など特定の有力大社を対象とする奉幣制度へと転換した。
・旧来の祈年祭や新嘗祭とは別の臨時祭が重視されるようになった。
・二十二社の中の有力神社である賀茂社や石清水八幡宮などへの天皇の神社行幸が盛んに行われるようになった。
・天皇祭祀の対象となった中央の二十二社が「王城鎮守」と位置づけられるようになった。
<・>国司<は>、国内の有力な祭神を一つの神社に勧請して集めて祀り、その神社に参拝することで神拝を済ませることとして、そのような神社が惣社(総社)と呼ばれた。
 このような祭祀形態は一方で、任国に下向しなくなった国司に代わって地方行政の中心的な存在となった在庁官人たちにとって、その自らの神社祭祀の対象であり権威の象徴としての意味を持つこととなった。
 以上より、平安京の天皇と摂関貴族にとっての中央の二十二社制と、地方国司と在庁官人にとっての一宮制という、国内神祇祭祀の上での相互補完の体制ができあがり、二十二社が「王城鎮守」、一宮が「国鎮守」と呼ばれた。・・・
 <律令祭祀制と平安祭祀制>の二つは時代的な推移の中でしばらくは共存・並行しながらも、やがて前者から後者へと移行した・・・」
https://blog.goo.ne.jp/cuckoo-cuckoo10/e/b1b6ef40f6a0664ed932d34fe3603bd7

 「応仁の乱により、律令制のもとで神社を管掌した神祇官の庁舎が焼失し、以来吉田家・白川伯王家が私邸を神祇官代として祭祀と神社管掌を継続していた。特に吉田家は寺社法度の制定によって江戸幕府より神社管掌を公認され、支配的な勢力となっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93

 つまり、私の言う、第一次弥生モードの真最中まで、かつての日本に国家神道が存在した、ということだ。
 言うまでもなく、その間、仏教は隆盛を極めており、天皇家の宗教も仏教だった。
 すなわち、「律(北京律)を中心として天台、東密(真言宗)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた・・・<ところの、つまりは、在日本の汎仏教宗派的な>泉涌寺<は、>・・・貞応3年(1224年)に・・・後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、・・・後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた<ところ、>・・・遂には南北朝時代から・・・江戸時代・・・までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっ<た>。・・・
 明治時代に入り、・・・天皇・・・の葬儀を行うこと<こそ>なくなった<が、>・・・大日本帝国憲法施行以来日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していた」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E6%B6%8C%E5%AF%BA
 日本の国家神道は、もともと、英国教より、更にユルーい存在であった、というわけだ。

〇国家神道マークII

 試行錯誤の時代(1868年(明治元年)に太政官の下に神祇官→その神祇官の太政官からの独立→神祇省→教部省→内務省社寺局)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98
を経て、「大日本帝國憲法<が>、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
ところ、その告文の中に、天皇の祖先が神(天照大神)であった旨の記述が4回も出現する(注108)ところ、この天照大神を主祭神とする伊勢神宮が古代以来、皇室の氏神として格式第一の神社であり続けたことから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
告文は、天皇が、事実上、神道の首長であることを示唆したものである、と言えよう。

 (注108)以下、『』は、太田が付けたもの。
 告文:「・・・皇祖皇宗ノ『神』靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟『神』ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖ヲ保持シ・・・
 皇祖皇宗及皇考ノ『神』祐ヲ祷リ・・・
 『神』靈此レヲ鑒ミタマヘ」 
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95 
 なお、本文である「大日本帝國憲法・・・第三條<に、>天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、と、神が登場するが、この条文は、「無答責の法理の根拠とされ、不敬や身体を害する行為が不敬罪として刑罰の対象になり、また、天皇はあらゆる非難から免れることを意味している<ところ、>・・・これと同様の規定は、君主権力の弱体化に対抗する手段として当時の立憲君主国にしばしば見られるものであったが、・・・草案を起草した井上毅が西洋の君主像を天皇に当てはめることに疑義を持ったため・・・大日本帝国憲法の最初の憲法草案には含まれていなかった<ものの>・・・、政府顧問のヘルマン・ロエスレルが導入を主張してその後の草案に含まれるようになり、成文化されることになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC3%E6%9D%A1
ものであることから、神道の『神』とは無関係であり、同じことが、憲法發布勅語中の「・・・我カ神聖ナル祖宗ノ威徳・・・」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95 前掲
の「神」についても言えよう。

 その後、「<1900年(>明治33年<)>4月26日、内務省社寺局が廃され、その事務は神社局と宗教局とにわかれ<、神社局が>・・・神社および神官、神職に関する行政事項をつかさど<ることとな>った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%B1%80
ことでもって、「神社」、すなわち、「神道」、が、教祖がいない、教典がない、布教活動をしない
https://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2010-05-30
ので「宗教」ではない・・と当時判断されたのかどうかまでは調べがつかなかった・・こと、と同時に、それがそれのみを所管する局が必要な宗教的なもの、すなわち、事実上の国教であること、の公的表明が日本政府によって行われた、と、いうのが私の理解だ。
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(続く)