太田述正コラム#10728(2019.8.9)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その101)>(2019.10.28公開)

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[教育勅語と修身]

 「1880年(明治13年)・・・の改正教育令の特徴は教科の順番で修身が一番先頭に来<た>ことであり、以後、太平洋戦争が始まるまで学校教育においては「修身」が筆頭となることとなった。具体的には、例えば、この翌年1881年(明治14年)に作成された『小学校教則綱領』では小学校における修身科の授業時間数が・・・12倍に増え、同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』では教師は児童・生徒に知識を教え込むのではなく道徳性を持たせるべきであるとされた。・・・
 初代文部大臣であった森有礼<(注125)>・・・は道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張し、1887年(明治20年)に刊行した『倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観を発表した。また、道徳教育は修身科によって言葉で教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした。 ・・・

 (注125)1847~89年。薩摩藩士出身。造士館、藩の開成所、英留・米留、英語の国語化を提唱。明六社に参加、明治18年(1885年)第1次伊藤内閣で初代文部大臣、黒田内閣でも留任。国粋主義者に暗殺される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC
 明六社:「<米国から>帰国した森有礼は、富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考えていた。そして欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて創立しようと考える。「帝都下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始めた。当時、27歳であった福沢諭吉を会長に推すも固辞<され>、森が初代社長に就任。最初の定員は10名で、西周・津田真道・中村正直・加藤弘之・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥・・旧幕府官僚で・・・開成所の関係者<、>と<、>慶應義塾門下生<、が大部分>・・・<という>構成・・で創立された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E7%A4%BE

⇒明六社は、島津斉彬コンセンサス信奉者であった森有礼が、同じ思いの福沢諭吉と共に、旧幕府系の識者達の間における勝海舟通奏低音賛同傾向を懸念し、彼らを島津斉彬コンセンサスに回心させるために設立した、と、私は見るに至っている。
 (結局、明六社の創立メンバーの一人であった中村正直の回心に成功しなかったことからも分かるように、この目的は完全には達成できなかったわけだが・・。)
 それにしても、森が、既に日本文明の中核たる人間主義を的確に同定していたことには驚いた。(太田)

 <しかし、結局、>・・・修身科の教科書として翻訳書<が>禁止<されると共に、>元田永孚の『幼学綱要』(1882)や、西村茂樹<(注126)>の『小学修身訓』(1880)・・西洋と東洋の哲学・倫理観をうまく組み合わせて折り合いをつけようとした<もの>・・<や>『小学修身書』(1883) など新しい教科書<が>儒学者によって作ら<れ>た。

 (注126)佐倉藩の支藩藩士出身。藩校で安井息軒から儒学、後に佐久間象山から砲術を学ぶ。佐倉藩主堀田正睦が老中首座の際に仕える。明六社に参加。漢字廃止論を提唱。天皇・皇后の進講。彼の主著『日本道徳論』・・「首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮し、日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示した」・・に森有礼文相は賛同したが、伊藤首相は激怒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E8%8C%82%E6%A8%B9

⇒西村茂樹は、佐久間象山を通じて和魂洋才論者になった可能性が高い。
 (また、安井息軒の弟子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92
繋がりで、谷干城(薩摩藩)や明石元二郎(福岡藩)との交流があったとしても不思議ではなく、彼らの影響で、島津斉彬コンセンサス信奉者にもなった可能性もある。
 もとより、その他のルートで同コンセンサス信奉者になった可能性も・・。)
 森の英語国語化論と西村の漢字廃止論には相通ずるものがあり、この2人は、要するに、人間主義、すなわち和魂、さえ維持できれば、洋才はいくら身に着けても構わない、と考えたのだろう。
 結局、山縣、福澤、森、西村、そして、元田、井上、は、表現として適切ではないかもしれないが、ことごとく同じ穴の狢だった、というのが私の見方だ。

 また、1882年(明治15年)の文部省による『小学修身編纂方大意』においては「儒教が日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米の倫理学は日本の風土に合わない」といったことが書かれており、これに基づいた教科書からは西洋の格言などが姿を消した。 ・・・
 <その後、>1890年(明治23年)に・・・『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発がなされ・・・<たところ、それは、>おおむね儒教的思想に基づいた内容となった。。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB

⇒従って、教育勅語が儒教に基づいているという、このウィキペディア執筆陣の捉え方は誤りに近いのであって、この勅語は、(同床異夢であったと思われる伊藤や中村等のごく一部の者達を除く、)当時の日本の先覚的識者達のコンセンサスに近かったところの、日本文明に普遍的な人間主義が内在している、との考えに立脚して書かれた修身の諸教科書のエッセンスを抽出して策定された、と言ってよいのではないか。
 そして、このような修身教育は、戦後、教育勅語が廃止されてからも、道徳教育と名を変えて引き続き行われ続けて現在に至っている、というのが私の理解だ。(太田)

(続く)