太田述正コラム#10790(2019.9.9)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その14)>(2019.11.28公開)

 「・・・幕府の正統性を疑い始めたのは、ひとり国学者のみではなかった。
 儒学者たちの間にさえ、将軍を簒奪者と説くほどではなかったけれど、将軍権力はそもそも天皇によって委任されたもので、一徳川家の利害のためではなく、全国民の利害のために行使さるべきものである、との事実を強調し始めるものがいたのである。・・・
 このような見解は、すでに一世紀以前にも熊沢蕃山<(注17)>(1619~1691、元和5~元禄4)のようなひとびとによっても抱かれたことがあった。・・・」(269)

 (注17)浪人の子。「中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。・・・貞享4年(1687年)、『大学或問』が幕政を批判したとされ、・・・蟄居謹慎させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1 (下の[]内も)
 「全編を通じて経世済民は、仁政にあり、その実現には富有でなければならぬと仁政の経済的基礎について洞察している。また、最終章では伝統文化の継承者としての天皇・公家論を展開している。・・・<また、>武士、とりわけ君主の責務・・・、治山・治水論など具体的提言、農兵論の展開[・・兵農分離批判・・]と貿易振興、大名財政を圧迫している参勤交代の緩和等々述べている。・・・
 本書の公刊は、天明8年(1788年)となり、折しも寛政の改革の渦中にあったため発禁書となった。しかしながら解禁後再度刊行され次の世代の荻生徂徠・頼山陽・横井小楠に影響を与え続け、幕末勝海舟も『氷川清話』の中で「儒服を着けた英雄」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%88%96%E5%95%8F

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[儒家神道と熊沢蕃山]

 「儒家神道は、江戸時代において儒学者によって提唱された神道である。神儒一致思想とも呼ばれる。・・・
 <(>これを批判する流れから成立したのが復古神道である。<)> ・・・
 藤原惺窩が神道と儒教は本来同一のものであると説い<た>。林羅山の神儒一致思想はその師である惺窩の論を継承し発展させたものであ<って、>・・・徹底した排仏思想が基本にあ<り、彼以後の儒家神道家達はこれを踏襲した>・・・。羅山・・・は神仏習合思想や[仏教・道教・儒教の思想を取り入れ、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱える]吉田神道<を>批判<した>。また、羅山は三種の神器が『中庸』の智・仁・勇の三徳を表すものであると考えた。・・・
 神儒一致思想には儒教に重きを置くもの<(α)>と神道に重きをおくもの<(β)>がある。林羅山や貝原益軒、三輪執斎などの説は前者の傾向が強いが、雨森芳洲、山鹿素行、熊沢蕃山、二宮尊徳、帆足万里、徳川斉昭、藤田東湖などの説は後者の傾向が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E9%81%93 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93

⇒私は、三種の神器を、歴代天皇・縄文性・弥生性を表すもの、という説を唱えている(コラム#10532)わけだ。
 なお、文字通り「神道」を名乗るところの、度会延佳の後期伊勢神道、吉川惟足の吉川神道、山崎闇斎の垂加神道、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%BB%B6%E4%BD%B3 及び上掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E9%81%93
もβということになるのではないか。(太田)

 「伊東多三郎<は、>・・・蕃山が「日本主義思想の先駆者」<としている。>・・・
 「・・・葬祭は天竺(インド)から、文字・器物・理学は唐国(中国)から借りることができるが、〈貸すこともできず借りることもできぬものがある〉。日本人にとっては、日本の水土(自然環境)に適した神道、唐国(中国)人にはその水土に適した儒教、天竺(インド)人にはその水土に適した仏教である」<(蕃山>『集義外書』「水土解}<)>・・・
 「<釈迦が日本に来たら、>・・・「儒道という名も聖学という語も言わず、日本の神道と王法を尊重し、再興して神代の古風に復帰するだろう。唐(中国)めいたことは何もあるはずがない」(『集義外書』巻2「釈迦が日本に来たら」)・・・

⇒インド文明、支那文明、に対するところの、日本文明、の独自性の宣言、と言うべきか。(太田)

 「人の身中に心があるのと、天地の間に人があるのと同じ理屈であります。心が悪ければ身の作法が悪く、人道が間違っていれば、世の中に災難が絶えることなく、ついには天下の乱れとなります。それだから、天下国家を治めるには、人の心を正しくするより先に立つものはありません」(『集義外書』巻2「一休の歌」)・・・
 <(「」内は、伊東多三郎責任編集『日本の名11、中江藤樹・熊沢蕃山』の現代語訳。)>」
https://ameblo.jp/a-hayashida/entry-12417888624.html

⇒その日本文明の中核が人間主義であることの指摘、と見てよかろう。
 蕃山は、日本文明の普遍性、至上性、を主張する直前で寸止めした、といったところだ。(太田)
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(続く)