太田述正コラム#10798(2019.9.13)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その18)>(2019.12.2公開)

 「・・・徳川時代後期、なぜ日本人は効果的な農村改革の遂行に成功しなかったかという理由を追求してみると、改善をおくらせたものは、惰性により昔からの土地所有の形態や、したがってその結果である古い手段を固執したことではなく、むしろ農民保護のため、専制支配者層により採用された故意の政策であったと思われる。

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[江戸時代後期の農村改革]

〇二宮尊徳(1787~1856年)

 「相模国栢山(かやま、現・神奈川県小田原市栢山)の酒匂川右岸に住む地主の長男に生まれた。早く両親を失った。伯父の家で苦労に耐えながら学問に励んだ。血のにじむような勤勉ぶりが実って家を再興させ、その後、小田原藩重臣・服部家の再建や同藩領である下野国桜町領(現・栃木県真岡市二宮)の荒廃地復興に成功した。一連の復興経験をもとに「報徳仕法」と呼ばれる独自の農村改良事業をもって、小田原藩はもとより烏山・下館・相馬の各藩の疲弊した600余りの村を再建した。幕府の官吏に取り立てられて、印旛沼運河開削工事の目論見を命じられ、後に日光神領の立て直しに取りかかり奔走中に没した。・・・
 彼は復興事業に携わる際には「分度」・・・経済の枠・・・を定め・・・<そ>の枠内で農村の立て直しや農民の生活の再建<計画である・・>仕法<・・>を立てた。手掛けた<仕法>は<全て>成功した。
 尊徳は、人間の社会的・経済的なあり方を勤・倹・譲と分度で律した。・・・勤・倹は個人の生活だが、譲に至って初めて社会が出て来る。譲があって道徳が出て来る。」
https://www.risktaisaku.com/articles/-/4050

〇大原幽学(1797~1858年)

 「尾張藩・・・の家老・・・の次男として生まれたとされる。・・・18歳の時、藩の剣道指南を斬り殺した。正当防衛であったが、・・・勘当されてしまった。・・・松尾寺(現・滋賀県米原市)の提宗和尚に「人間は世のため人のために役立たなければならぬ。わしのような隠者になるな」と諭され、命がけでやる生涯の道を決意した。・・・
 長部村(現千葉県旭市)に定住する動機は、村の名主・・・が息子の教育と退廃する村落を建て直すために幽学に依頼したことに始まる。・・・
 幽学は農民らに土地の集団化と耕地整理を提案し<、ついには賛同を得、農地を>・・・共同管理<するとともに>、質入れした土地を取り戻して、潰れた家を再興し生活の安定を図った。・・・
 幽学の先進的取り組みは事件や長い裁判によって挫折する。だが、その成果は現代社会にも引き継がれている。彼の指導理論・・・は「心の穢れを洗い磨く」ことに・・・あり、耕地整理は土地改良事業にあたる。」
https://www.risktaisaku.com/articles/-/4050?page=2
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⇒尊徳の手がけた、心のインフラ整備(百姓への自己規律意識の注入と人間主義の喚起)と物的インフラ整備とを車の両輪とした農村改革は成功を収めた一方、幽学の農業組合的農村改革は時代を先取りし過ぎていて失敗した、というわけですが、尊徳は江戸後期の農村の着実な前進を、幽学は同じく革新的取り組み、を、それぞれ象徴していて、心強い思いがさせられるところ、この2人のことくらいはサンソムは知っていたはずなのに、にもかかわらず、彼が「日本人は効果的な農村改革の遂行に成功しなかった」などと切り捨てているのは、彼がもっぱら参照したと思われる、日本のマルクス主義史学の悲観主義的な物の見方に引きずられてしまった、ということではないでしょうか。(太田)

 ここでわれわれは、フリートリッヒ大王の農民保護政策(Bauernschutz)との類似を見るが、相違する点として、ドイツ支配者の目的は軍隊のための新兵を獲得することであったが、日本人の場合は農村社会を商人や金貸しの侵入から防禦することであった。
 どちらの場合も、現象を封建的外貌のせいにすることは正当ではない。
 もっとも日本においては、それはすでに国家の経済構造を変えていたところの貨幣の浸透がさらに進むのを妨げようとする封建支配者の態度により生じた、ということが言えそうである。・・・」(287)

⇒プロイセンの話まで検証するのは控えますが、「江戸時代中期以降、木綿や菜種といった作物が商品作物として盛んに栽培が行われるようにな<ったところ、>江戸幕府は、当初は田畑勝手作禁止令を出し商品作物の生産を禁止していたが、全国の市場経済化に押されて後に結果として認めるようにな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%93%81%E4%BD%9C%E7%89%A9
というのですから、江戸後期の話をしている以上、サンソムは、ここでも間違っています。(太田)

(続く)