太田述正コラム#10846(2019.10.7)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その38)>(2019.12.28公開)

 「・・・『御誓文』の条項のもとにつくられた最初の政治組織が、どんな西欧流の形式も具現するものではなく、どんな特定の西欧の影響をも受けていないということは明らかである。
 それは、当時公然といわれていたとおり、封建以前の制度への復帰だった。
 西暦701年(大宝元)にシナの制度を模して設定された統治様式にのっとり、ほとんどそのまま同じ官職を同じ名前で復活させたものだった。
 そしてとくに、神祇官が他の全官省に優越するという、きわめて古風な特徴を示していた。

⇒確かにそうではあるけれど、律令体制発足当時から、神祇官がさして重視されていなかった(コラム#10702)こと、その一方で、新政府のリーダー達の間で、イギリスの国教会の存在が知られていたはずであること、を想起すべきでしょう。(太田)

 だがこの新しい制度に若干の新工夫があったこともたしかである。
 討議集会というものは、もともと日本の伝統のなかにあるものでなかった。
 とはいっても、古代や中世の日本では、大きな僧院などの集団はそのメンバーから出された評議員会によって運営されていたし、あいつぐ封建体制の下でも、事務の多くは将軍によって評議員会ないし委員会にゆだねられていた。

⇒サンソムには、聖徳太子が604年に作ったとされる『十七条憲法』の一に、「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」とある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
ことに言及して欲しかったところです。
 (現代語訳:「上下の身分に関係なくみんなと議論を行えば、自然と物事はうまく進むものです。・・・不可能なことなどありません。」
https://manareki.com/17kenpo )(太田)

 そういうことがあったから、討議集会と言う考えが外国からきているとは確言できないが、しかしそれでも、この初期の国家組織のいくつかの点は、きわめて一般的な意味での外国の影響に帰することができるだろう。
 たとえば三権分立である。

⇒このあたりのサンソムのスタンスは分かりにくいですね。(太田)

 『五箇条御誓文」のなかで討議集会のことがあのように強調されているの<は、>実は高まりつつある民主的感情に対する譲歩なのではなくて、単独の封建グループが優勢になることに対する安全装置としてであったのである。・・・

⇒典拠が付されていませんが、曲解に近いのでは?(太田)
 
 版籍奉還の考えは別に新しいものではなく、すでに維新前、徳川家の親藩尾張藩から示唆されたこともあった<(注43)>が、あのころの考えでは、奉還した領地はまた天皇が配分し直すはずだった。・・・

 (注43)ネット上では検証できなかった。下掲↓は参考まで。
 「木戸孝允は、慶応4年(1868年)の2月と7月に版籍奉還の必要を建言している。伊藤博文は兵庫県知事を務めていた明治元年(1868年)10月に、木戸と同様の郡県制論と、戊申戦争後の凱旋兵士を再編して新政府軍の常備軍とする意見書を出し、明治2年正月には同じ趣旨の国是綱目(兵庫論)を提出している。その間、明治元年11月に姫路藩主の酒井忠邦は、伊藤博文の建白と連携する形で版籍奉還の建白書を提出した。・・・
 版籍奉還<は、>・・・明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%B1%8D%E5%A5%89%E9%82%84

⇒一般に余り指摘されていませんが、版籍奉還が「円滑」に行われた背景の一つに、支那において、早期に封建制から郡県制(「注43」での引用中に登場することに注意)への移行が行われたという史実が武士達の間で常識化していた、ということもあげてよいのではないでしょうか。(太田)
 
 一般民衆はこのころ、まだ政治勢力のバランスの上でほとんどなんの重みももたなかった。
 政府にとってのほんとうの危険は、変化に対する民衆の反対ではなくて、軍人階級の武力による実際的な抵抗の方であったのだから。
 しかしそれでも都市ではいくらか国政に対する関心の生長があったので、政府は新聞に封建主義反対の論調をとらせるように手を廻した。
 これは政府が下々一般の意見を考慮に入れた、日本史上最初の事実である。
 木戸の勧めで1871年(明治4)に創刊された新聞(『新聞雑誌』<(注44)>)は、週刊紙で、主にこの特殊な目的のためのものであった。」(55~56、58~59、61)

 (注44)「明治初期の東京の新聞。1871年(明治4)に長州出身の参議木戸孝允が出資して同藩士山県篤蔵に発行させた。初めは月数回刊,後には隔日刊。新政府の文明開化や廃藩置県などの政策を国民に周知徹底させることを意図していた。・・・記者には書家の長三洲(ちょうさんしゅう)や仏教界の島地黙雷(しまじもくらい)らがいた。・・・不定期刊であったが,別冊付録をしばしば発行,内外の政治,経済,社会の情報や解説を掲載した。日刊の《東京日日新聞》などの台頭とともに衰退し,75年《あけぼの》,さらに《東京曙新聞》と改題した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E8%81%9E%E9%9B%91%E8%AA%8C-82520

⇒ここは、サンソムの目の付け所を褒めておきましょう。(太田)

(続く)