太田述正コラム#10852(2019.10.10)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その41)>(2019.12.31公開)

⇒サンソムの主張は誤りであり、支那史の言葉を用いたところの、封建制の廃止、換言すれば、郡県制への移行、は、維新新政府を担った志士達のコンセンサスであって、そのことは、公選制の初期からの導入一つとっただけでも明らかである、と言ってよいでしょう。(太田)

 「・・・<板垣退助>は1876年(明治9)の秋、職を辞し、反対党の結束を固めはじめた。
 この反対党が以後10年ないしそれ以上にわたって、民権運動を動かしてゆくこととなるのである。

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[大阪会議]

 「征韓論をめぐる明治6年(1873年)10月の政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・<薩摩藩出身の>西郷隆盛や<佐賀藩出身の>江藤新平、<土佐藩出身の>板垣退助らが下野し、政府を去った。・・・<更に、その>直後[<の>明治7年(1874年)5月
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 
]に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州<藩出身の>木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で・・・<志士上がりの>トップは大久保だけになってしまう。

⇒島津斉彬コンセンサス信奉者達中の急進派(征韓論賛成派)が、そして、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者(征韓論絶対反対派)が、政府を去り、残ったのは島津斉彬コンセンサス信奉者達中の漸進派(征韓論反対派)だけになってしまった、ということだろう。(太田)

 政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党<(後出)>を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉が不平士族<達>・・・に襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ改革反対の保守的な建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。・・・
 明治7年(1874年)12月、・・・当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた<長州藩出身の>井上馨は・・・、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また・・・東京にいた板垣も招いた。こうして大阪府第1大区(現・大阪市中央区)北浜1丁目の蟹島新地に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上<と>・・・伊藤博文・・・を周旋役として行われることとなった。
 ・・・<また、>井上と同じように官界を去って実業界入りしていた<旧薩摩藩出身の>五代友厚・・・<の>邸<が>大阪会議の準備会談として使われ<た。>・・・
 明治8年(1875年)1月22日、大阪へ到着した木戸と板垣による会談が、まず井上・小室・古沢の同席のもと行われ、民選議院開設についての話し合いが行われた。つづいて29日、木戸と大久保の会談が行われ、木戸の政府復帰が決定される。・・・
 2月11日、木戸が大久保と板垣を招待する(井上・伊藤が同席)という形式で、北浜の料亭・・・での三者会議が行われた。この会議を「大阪会議」と呼ぶ。ただしこの席では政治の話はいっさい出ず、三者による酒席・歓談のみが行われたという・・・。・・・
 三者合意による政体改革案は、ただちに太政大臣三条実美に提出され、3月に木戸・板垣は参議へ復帰することとなった。合意に基づき、さっそく4月14日には明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられ、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言された。いっぽう板垣は参議就任により、愛国社創立運動の失敗を招いたため、自由民権派から背信行為を厳しく糾弾され、釈明に追われることとなった。
 難産の末に確立された新体制であったが、ほどなく地方官会議の権限をめぐって木戸と板垣が対立するようになり、さらに参議と各省の卿の分離問題で、両者は決定的な対立を迎える。折から発生した江華島事件の処理をめぐる意見対立も重なり、板垣はついに参議を辞任した。大阪会議体制はわずか半年にして崩壊する。板垣とセットで入閣した木戸の発言力も必然的に下がり、さらにこの頃より持病の悪化から表立った政治活動を行いにくくなったこともあり、木戸の政府内での地位も低下した。
 また一時期、板垣と連携する動きを見せた左大臣・島津久光が、自身の主張が認められないため辞表を提出し、岩倉・大久保らが主導権を握る体制に戻った。ここに大阪会議で決定された新体制は完全に崩壊した。結果として大阪会議以前の大久保主導の体制が強化された形で復活した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E4%BC%9A%E8%AD%B0

⇒久光のことはさておき、今度も、征韓論の時同様、急進派が政府を去った、ということだろう。
 (なお、木戸は、明治10年(1877年)の西南戦争のさなかの5月に出張先の京都で病死している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 前掲)(太田)
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 板垣はすでに1873年(明治6)に政治結社をつくっていた。
 これは本部を東京におき、この種のものとしては日本最初の結社であって、「愛国公党」<(注45)>と称した。・・・」(79)

 (注45)「明治六年政変で下野した板垣退助らは、[五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、]幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京京橋区銀座の<佐賀藩出身の>副島種臣邸に同志を集めて・・・愛国公党<を>・・・結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、<土佐藩出身の>後藤象二郎、<佐賀藩出身の>江藤新平、<商家出身の>小室信夫、<福井藩出身の>由利公正、<土佐藩出身の>岡本健三郎、<土佐藩出身の>古沢滋が署名している。・・・
 後に板垣退助や<土佐藩出身の>片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%85%AC%E5%85%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9 ([]内) 前掲

⇒島津斉彬コンセンサス信奉者達中の急進派(征韓論賛成派)が愛国公党を作り、佐賀の乱・西南戦争等を起こした、ということでしょうね。
 私は、(横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達のことはさておき、)島津斉彬コンセンサス信奉者達中、直接、斉彬の薫陶を受けた旧志士達は現実主義者として漸進派となり、斉彬の考えを聞き齧った旧志士達等は理想主義者として急進派となった、・・西郷も漸進派だったが、征韓論の時も西南戦争の時も急進派に頭目として担がれるという損な役割を成行で引き受けてしまっただけ・・と見ているところです。(太田)

(続く)