太田述正コラム#10850(2019.10.9)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その40)>(2019.12.30公開)

 「・・・<志士達>の狙いは、封建支配の当時おこなわれていた諸方式(つまり大名は名目上の主権で、実際の権力はその武士顧問官たちによって執行されるという方式)を、国家の規模で再現することだったのである。・・・
 明治維新派、もとをただせば、1688年のイギリス革命や1789年のフランス革命にくらべられるような革命ではなかった。
 それは支配的な軍人階級の一部が、政治と軍事の両方を武器を使って、同じ階級内の別な一部と闘った内戦だったのである。
 その目的は、もう老衰し委縮してしまった政府の代りに、新人を存分に活動させてくれるような、もっと有効な政治制度をつくることだった。
 勝った側の指導者たちは、その後間もなく彼らが分裂したことからも明かなように、なんら新しい政治理論を体現してはいなかった。
 政権を確保するというその目的を果たしてはじめて、彼らは、政権保持のためにはあるいくつかの制度を廃さなければいけないことに気がついたのである。
 別な、もっと簡単な言葉でいうなら、「封建制廃止は主として後からの思いつきであった。」・・・」(74~75)

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[明治初期の地方における公選制]

 「わが国における議会制民主主義の萌芽は、明治元年3月14日に発せられた「五箇条の御誓文」に見出すことができる。すなわち、その最初に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあり、これが・・・藩議会、地方民会の発祥へとつながる。・・・
 御誓文を具体化した政体書(明治元年閏4月21日)の発布によって、府、藩、県を地方行政区画とし、府に府知事、藩に諸侯、県に県知事を各一人置くという府藩県三治制を定めた。
 これに基づき、維新政府は、藩体制に関する最初の単独法規である藩治職制(明治元年10月27日)を定めた。それによると、藩の大小を問わず各藩には画一的に執政、参政、公議人の3職をおき、執政及び参政が藩の行政に当たることとなっている。但し、これには旧来の門閥家格によらず、人材を登用して努めて公選制によること、藩政と藩主の家政とは明確に分離すること、また藩議会を設けて公議人がその議員となるよう改革すべしと定められている。

⇒「封建制廃止は主として後からの思いつきであった。」というサンソムの主張が出鱈目であることは、これだけでも明らかだろう。(太田)

 これに応じて早くもその機関を設けた藩もあったが、版籍奉還(明治2年6月17日)により、旧藩主を藩の知事とするとともに、職員令(7月8日)により地方長官の職制、権限等を明示した。これにより府藩県三治の一致は更に進み、このころから各藩において藩の事情に応じた会議制度が考案され実施されていく。
 しかしながらこの試みは、成熟するにいたらず、廃藩置県(明治4年7月14日)により藩とともに消滅した。・・・
 廃藩置県により、各府県の地方官に抜擢された人々は、その地方官独自の機関として議政機関を設けた。当時は依るべき法律もなく、その名称もまちまちであったが、これら地方議会の試みは一般に「地方民会」と総称された。
 第一回地方官会議(明治8年6月20日)の際、議長木戸孝允は「今全国府県の民会を開くもの7県、区戸長会を開くもの1府22県、其議会なきもの2府17県、其の余未だ明ならず」と紹介している。・・・
 [1878年(明治11年)の]三新法(府県会規則、郡区町村編制法、地方税規則)は、維新後十余年、明治政府が最初に制定した統一的地方制度であり、明治11年に制定され、翌明治12年から実施された。」
http://www.gichokai.gr.jp/hensen/01.html
 「郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村(小規模町村では複数の町村単位)ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させて<い>・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%95%B7 ([]内も)
 「府県会規則<と(>明治13年4月公布の<)>区町村会法<は>、初めて地方議会について規定したもので、府県会及び区町村会は、国会の開設<までの>間、唯一の民選の議決機関であった。」
http://www.gichokai.gr.jp/hensen/01.html 前掲
 「市制は、町村制とともに1888年(明治21年)4月25日に明治21年4月25日法律第1号として公布された。・・・
 市には市会<、町村には町村会>を置き、土地所有と納税額による選挙権制限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によって市会</町村会>議員を選出した。
 <以下、参考だが、>市は条例制定などの権限を持つ。市長は市会が候補者3名を推薦し、内務大臣が天皇に上奏裁可を求めて決めた。市会は別に助役と名誉職参事会員を選出した。市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が市の行政を統括した。
 東京・大阪・京都の三大都市は、特例として市制の一部が適用されなかった。「市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件」(明治22年3月23日法律第12号、全8条)により東京市、京都市、大阪市の3市には市長と助役を置かず市長の職務は府知事が、助役の職務は書記官が行うなどの特例(市制特例)が定められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%88%B6

⇒以上から、明治初期の地方における公選制の導入が、国会開設の前段として行われたこともまた明白だろう。
 なお、かねてより、中共当局は、末端の地方政府の首長公選制を導入済みであるところ、これは、日本の明治期を参照しつつ、それを、次第に上級地方政府に及ぼし、更には、中央政府においても実現することを目指している、と私は見ているところだ。(コラム#省略)
 日本の場合よりも時間がかかっているのは、人民の人間主義者化が前提となると歴代当局が考えていて、それに手間取っているためである、とも見ている。(太田)
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(続く)