太田述正コラム#10854(2019.10.11)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その42)>(2020.1.1公開)

 「・・・議会開設のための戦いは、その本質において、伝統主義者・・・<、すなわち>絶対主義<者、>・・・と<、>西洋風の政治原理の唱道者・・・<、すなわち>自由主義<者、>・・・とのあいだの互いに旗色鮮明な争論であったのではなく、むしろ、古<くからの>敵対関係・・・<であったところの、>事実上の権力独占をを<している>・・・薩長人<と、それを>・・・ひどく怨んでいた<人々、との間の敵対関係、>・・・を近代風な道具立てのなかにもちこんだものであったということになる。・・・
 実質からいってこの見かたが正しいことは、数々の新政党がのちに地位と利得の保全機関と化してしまったとき、原理が徐々に退化し犠牲にされていった有様からもわかる。・・・
 <実際、両者の間>の論戦が、実際に解決を迫られている問題とはほとんど無関係な西洋思想をかりて行なわれていたことを感ぜずにはいられないのである。
 これはそうなるのが当然だった。
 なぜなら19世紀ヨーロッパの政治哲学というものは、当時の日本の事情とはごく一般的な点でしか相似るところのない、ヨーロッパなりの事情に即応すべく編みだされたものだったからである。・・・
 <考えてもみよ、>板垣自身、韓国民「懲罰」のための兵力派遣を進言した<人物>である。
 これは、ごく控え目にいっても、政府と袂を分って自由主義運動を指導するというには、奇妙な、しかも縁起のよくない動機であった。・・・
 板垣の自由主義はどうみても、議会形式をほどほどに認めておこうということ以上に出るものではなかった、といっておくだけでよいだろう。・・・
 <いずれにせよ、>訓練も教育も受けていない選挙民に、政治的自由を与えることを政府が躊躇したのも、当然だった。・・・

⇒繰り返しになりますが、民間における島津斉彬コンセンサス信奉者達中の急進派(征韓論賛成派)、に対するに、政府内における島津斉彬コンセンサス信奉者達中の漸進派(征韓論反対派)と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者(征韓論絶対反対派)、という図式を念頭に置けば、よりスッキリした説明が可能になるわけです。
 なお、そのことと、中央議会における、複数政党制、とりわけ、英米流の二大政党制、の、広義のアングロサクソン文明以外による継受(の困難性)問題とは、サンソムのように一緒くたに論じるのではなく、別個の問題として切り分けた上で、それぞれについて論じるべきでしょう。(太田)

 日本の政治史と、英米のそれとの間に、ひとつ、実にはっきりとしたコントラストがある。
 英米両国では、組織的な政党というものを生み出したのは議会であった。
 ところが日本では政党が議会を生んだのである。」(84~89)

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[プロト欧州文明下の「政党」]

○神聖ローマ帝国/北イタリアにおける教皇派と皇帝派

 「教皇派と皇帝派とは、12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。ゲルフとギベリンともいう。
 元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をヴィーベリン(現在のヴァイブリンゲン)と言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。・・・
 ロミオとジュリエット<は、>・・・シェークスピアによるヴェローナを舞台にした悲恋物語<だが、>ロミオの実家モンタギュー家(教皇派)とジュリエットの実家キャピュレット家(皇帝派)の対立は当時のヴェローナ情勢を背景にしたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87%E6%B4%BE%E3%81%A8%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%B4%BE

⇒議会的なものの生誕には結びつかなかった。(太田)

○フランスにおけるカトリックとユグノー

 「三部会は王家の資金の欠乏とカトリックとプロテスタント(ユグノー)との対立により16世紀後半に復活した。アンリ2世の崩御後に実権を握った母后カトリーヌ・ド・メディシスは1560年にオルレアン三部会を招集して摂政指名を受けるとともに、宗教融和策を図った。翌1561年にはポワシーとポントワーズでの三部会が招集され、聖職者層に圧力をかけて財政負担を了承させることに成功したが(ポワシー協定)、カトリックのプロテスタントとの会談は失敗に終わった(ポワシー会談)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A

⇒前近代的議会を一時復活させた。(太田)
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⇒サンソムが、「西洋諸国」ではなく「英米両国」と限定しているのは、国会開設以前の明治期の日本・・・論戦と実戦が並存した・・同様、プロト欧州文明下の諸国・・やはり論戦と実戦がが並存した・・にも、イギリス(そしてずっと時代は下るが、イギリスから独立した米国)には存在したところの、近代的な議会が存在しない一方で、政党的なものは、すぐ上の囲み記事から明らかなように、存在しえたからです。(太田)

(続く)