太田述正コラム#10856(2019.10.12)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その43)>(2020.1.2公開)

 「・・・開明派の失敗に関しては、・・・日本はまだ民主主義のための準備がととのっていなかった、という一語に要約しうる。
 <何といっても、>日本のそれまでの歴史は民主主義とは反対のものだった<のだから・・>。・・・
 <もっとも、>代議制的民主主義に対する信用が当時のイギリスにあまねくゆきわたっていたなどと考えたら、それは間違いだろう。
 事実、卓越したヴィクトリア朝人士で議会制度に信をおいていたようなひとたちの大半は、その議会制度を政治に対する人民の参与を拡大するための手段とみなしていたのではなく、むしろ民主主義に対抗するための防塁と考えていたのであった。
 そしてかれらは選挙権に非常な制限をつけることに賛成だった。・・・

⇒私がコラム#91で指摘したことを、サンソムが言ってくれていましたね。(太田)

 同様に、経済理論の分野でも、アダム・スミスと自由競争の論がなんの批判も受けなかったとはいえぬのである。
 ミルもスペンサーもそれを首肯しなかったし、そのような不信を示したのはかれら二人に限らなかった。

⇒ここは、サンソム、舌足らずですね。
 アダム・スミスは、アングロサクソン文明は、政治経済面での個人主義とそれ以外の面での人間主義的なもの(sympathy)、の両面が互いに補完し合っている、と主張した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
のであり、決して個人主義一辺倒ではなかったのですから・・。(太田)

 進歩の観念でさえも、いまから振り返ってみればヴィクトリア朝の生活を支配していたかにみえるが、実は多くのすぐれたイギリス人士によって批判され、笑いものにされていたのである。
 そのことは、マシウ・アーノルド<(注46)(コラム#3399、3529、5240、8751、10645)>の憂鬱気な表情と、鐘鳴りひびく日々刻々のきまった道をたどって、楽し気に行進したテニスン<(注47)>の心*とを並べてみれば、明かだろう。

 (注46)マシュー・アーノルド(Matthew Arnold。1822~88年)。ラグビー校、オックスフォード卒。「イギリスの耽美派詩人の代表であり、文明批評家でもある。ヴィクトリア朝時代における信仰の危機をうたった絶唱の「ドーヴァー・ビーチ」が有名」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89
 ドーヴァー・ビーチ(Dover Beach)は1867年に出版された詩集New Poemsに収録されているが、おそらくは1851年に書き始められたと思われる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Dover_Beach
 (注47)アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson。1809~92年)。ケンブリッジ大[(父死亡により中退)]。「1832年に<一>学友・・・と大陸を旅行するが、その翌年に<彼>が急死し、強い衝撃を受けて彼を弔う長詩『イン・メモリアム』(In Memoriam A.H.H.)を書き始め、十数年にわたる自己の思想の成長をも織りこんで1849年に完成させた。友人の死と進化論によって揺れ動く信仰をうたった詩であり、序詩は「つよき神の子、朽ちぬ愛よ」として讃美歌275番に収録されている。・・・
 1855年『Maud』、1859年から1864年にかけてアーサー王伝説に取材した『国王牧歌』や、哀れな水夫の物語詩『イノック・アーデン』(Enoch Arden, 1864年)、『Locksley Hall Sixty Years After』(1886年)を発表し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred,_Lord_Tennyson ([]内)

 *テニスンの詩Locksley Hall<(注48)>の第181~182行に”Forward, forward,let us range,/Let the great world spin for ever down the ringing grooves of change.”と見える。・・・」(94~96)

 (注48)1835年作詩、1842年に他の諸詩と共にPoemsとして出版。テニスンは、高貴(高潔)な野蛮人(noble savage)の美と文明(civilization)の美とを対比させ、前者を排斥した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Locksley_Hall
 「ディドロは『ブーガンヴィル航海記補遺』で罪のない平和な未開民族に比べて、争いに明け暮れる〈野蛮〉なヨーロッパを批判し、〈野蛮〉を未開人種の属性ではなく戦闘行為にも付与した。高貴な野蛮人は、平和と寛容の象徴とされた。
 19世紀以降では、植民地の進展とインディアンの反抗がヨーロッパ白人の意識に達したのか、誇り高く自由な民としての「高貴な野蛮人」(高貴なる野蛮人、ノーブル・サベージ、高潔な野蛮人、高潔なる野蛮人)があらわれる。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『モヒカン族の最後』、アレクサンドル・ブロークの詩『スキタイ人』などでは、戦闘や復讐における残忍さも、自然力と無秩序のあらわれとして理解されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%9B%AE

⇒「注48」から、欧州文明人の中には、高貴な野蛮人の美点をその縄文性に見出した者もいたけれど、結局は、前近代的な弥生性に見出す、というあたりに、彼らの見解が落ち着いた、ということのようです。
 テニスンは、欧米人の美点である「近代的な弥生性」、を、高貴な野蛮人の美点である「前近代的な弥生性」、と対比した上で、前者を是としたところ、アーノルドは、後者は前キリスト教ゆえに、前者は後キリスト教ゆえに、共に排斥し、キリスト教信仰の復興を唱えた、というのが私のとりあえずの理解です。
 この私のとりあえずの理解が正しく、かかる理解に基づいてサンソムがアーノルドに言及したのか、それとも、アーノルドの念頭にあった信仰はイギリスにおける伝統的な自然宗教的なものに係る信仰だったからこそ、サンソムはアーノルドに言及した、ということなのか、を解明するのは別の機会に譲りたいと思います。(太田)

(続く)