太田述正コラム#10858(2019.10.13)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その44)>(2020.1.3公開)

 「・・・神道が国家の保護を独占して、仏教に対し有利な位置をえようとしながら、それに失敗したことが、1872年(明治5)以降になるとかえって仏教側をある程度利することとなった。
 仏教徒のあいだには宗派活動がまた盛んになり、明治初年の過酷な経済的圧迫から立ち直ることができるようになった。
 仏教新聞もひとつでき、1874年(明治7)以後、短い期間ではあったが、政治論争に一役買った。
 その当時始まったような種類の排外運動の上で、仏教そのものとまではいかなくとも、仏教徒たちが目立った活躍を示したのである。
 そのなかでもいちばん有名なのが、佐田介石<(注49)>という名の、極端な意見を吐く一奇人で、文章を書いては、近代的な事物に対しても、近代思想に対しても真向から当り散らした。

 (注49)さたかいせき(1818~82年)。住職の子に生まれ、「少年時代は熊本藩の藩校で儒学を学び、18歳のとき・・・京都に出て、本願寺派やその他の教学を修学した。・・・幕府が進める長州征伐に反対してこれを止めるように意見書を出す一方で、・・・長州藩に赴き、幕府との和議を斡旋した。 明治に入ってからも・・・文明開化を強く批判して農本主義・鎖国体制の堅持・国産品推奨を主張し・・・、次第に・・・国産品推奨・外国製品排斥を主張するものとなっていった。
 また、・・・西洋天文学と徹底的に対決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E4%BB%8B%E7%9F%B3

 『ランプ亡国論』という論文を書いたのも彼である。・・・
 目賀田栄<(注50)>のように・・・キリスト教<に対して>・・・激越な言辞を弄する極論家もいた。

 (注50)ネット上では、断片的情報しか得られなかった。
 宣教師で同志社英学校神学教師も務め、仏教や日本文化にも興味を持ち、神戸を中心に、巡回伝道や著述活動を行った、ジョン・レイドロー・アトキンソン(John Laidlaw Atkinson。1842~1908年)・・英国生まれで米国に移住し、1873年に来日・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
「<の>演説を聞いた「仏教の鼓舞者」目賀田栄が、憤然と式壇に登場し、演説は「我田引水の詭弁である上、死者を侮辱し、国体を誹謗したものなり」と追及した。怒りが収まらない目賀田は、兵庫県にアッキンソンを告訴するよう要請した。」という文章を見つけたが、既に、この文章が掲載されていた「神戸みなと知育楽座」なるサイト
www.geocities.jp › npoport › minatotiikurakuzapart10
は閉鎖されている。
 このほか、神戸報国義会なる救貧事業団体の創立(明治17年)は目賀田栄の努力の結果である、旨の記述
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10066206&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
や、目賀田栄が、「政府の非公開文書を秘密出版し<て>・・・、重禁錮6ヵ月・罰金70円の刑を受け<た>。」
https://kopen11.blog.fc2.com/blog-entry-207.html
旨の記述を見つけた。

 目賀田は1883年(明治16)、『洋教不条理』と題する一論を草して、キリスト教の教理は邪悪であり、聖書は悪魔の著した本であると論難したのである。
 それより以前、1875年(明治8)にはすでに、老練な儒者安井息軒<(注51)>が、『弁妄』<(注52)>(「虚妄の説の摘発」)を書き、日本人の伝統的感情をよりどころに、キリスト教に対して猛攻を浴びせかけたことがあった。

 (注51)1799~1876年。「日向国宮崎郡清武郷(現・宮崎県宮崎市)出身。その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。門下からは谷干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92
 (注52)「儒教的合理主義・宇宙観から徹底的にキリスト教を批判・・・第一に、忠孝の道を軽んずること、第二に、その死に臨んで未練がましかったこと、第三に、人を視るに明のなかったこと、第四に、その説の矛盾していることを挙げ<た>」
https://books.google.co.jp/books?id=FunpVtKy6XkC&pg=PA63&lpg=PA63&dq=%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92;%E5%BC%81%E5%A6%84&source=bl&ots=BlZpMWi3Ak&sig=ACfU3U2jfcu9lxUjBL4DPonPdxkNvYqlAA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjVlcK43ZjlAhVmyosBHYgsDt44ChDoATAHegQICBAB#v=onepage&q=%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92%3B%E5%BC%81%E5%A6%84&f=false

 息軒の聖書批判は痛烈をきわめ、かならずしも無効果ではなかった。
 その著には大の保守主義者・薩摩藩主島津久光の序がついていた。・・・」(109、111~112)

⇒このあたりは、サンソムの勉強ぶりがよくうかがえますね。
 安井息軒自身も、40歳の時に芝増上寺の僧寮でも学んでおり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92 前掲
仏教は、日本の(私の言うところの)拡大弥生時代や第一次弥生モードの時代に人間主義の維持・活性化に貢献しただけでなく、第二次弥生モードの時代にも、(人間主義を含む)日本文明の核心部分の維持・活性化に貢献した、と言ってよさそうです。(太田)
 
(続く)