太田述正コラム#10860(2019.10.14)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その45)>(2020.1.4公開)

 「・・・西洋思想心酔の極端な一例は、高橋義雄<(注53)>という一文筆家の場合である。

 (注53)1861~1937年。「<茨城の平民の家に生まれ、>慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、・・・福澤率いる時事新報の記者になった。生糸売買で成功した前橋の商人下村善太郎と知り合い、実業視察のための洋行話を取り付け、下村の援助で・・・渡米。ニューヨーク郊外の商業学校に学び、デパートなど商業視察を行なったのち渡英、ロンドン、リバプールに滞在中にパリ、ブリュッセルも視察し、帰国後、三井銀行に入社。
 1895年(明治28年)、三井呉服店(三越)に移<った。>・・・三井家の重役のなかでもとくに勢力があり、贅沢な暮らしぶりで知られた。
 王子製紙の専務を最後に、1911年(明治44年)、50歳のときに実業界を引退し、以後は茶道三昧の生活を送り、風雅の道を通じて各界の名士と広く交際した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%BE%A9%E9%9B%84_(%E8%8C%B6%E4%BA%BA)

 彼は1884年(明治17)『日本人種改良論』<(注54)>なる一書をあらわし、日本人は肉体的にも知的にも西洋人種に劣り、これと競争することは不可能だと論じた。

 (注54)「<時事新報>社説記者<当時>の高橋義雄が『日本人種改良論』なる本を著した。この中で、日本は西洋に肩を並べるために、欧米人との雑婚を進め、人種を改良しなければならないと主張、これに対して19年1月、加藤弘之<(コラム#9657、9713、10042、10238、10728)>は学士会院で演説し、雑婚が進めば日本人の血が絶えるとしてその不可を主張、その筆記が「人種改良の弁」の題で『東日』に掲載された。『時事』は社説でこれに反論、さらに漫言「加藤弘之君への質問」ではロシア皇帝の結婚の伝統を持ち出して追い討ちをかけた。福沢は遺伝学説に深い関心を持っていたことを紹介したが、これもその関連で位置付けられよう。高橋はこの論争について次のように回想している(『箒のあと』)。
 人種改良論を著述した動機は、井上外務卿が条約改正に先だってしきりに欧化主義を鼓吹した時勢の感化を受けたもので、日本人を一躍欧米人と肩を並べしむるには、まず矮小(わいしょう)なる日本人の体格を改良し、なお進んでは、彼らと結婚して、根本的に人種を改良すべしという突飛な論説であった。…日本人種改良論に対しては、当時の帝国大学総長であった加藤弘之博士が、ある雑誌で堂々と論難せられたので、私は時事新報紙上でこれに対抗したが、その時福沢先生が相手が面白いから確乎やるが宜しい、何でも議論の最後まで対陣して、最後の筆はこちらで持つようにしなくてはならぬと奨励せられたが、福沢先生の論争は、常にこの筆法によられたようで、必ず相手を降参せしめなくてはやまぬという風であった。」
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/20.html
 「福沢は『日本人種改良論』に序文を書いているほどで、高橋の論を推奨していた。「天は…」の言葉で誤解されている面もあるが、福沢は平等は理想であるけれども、現実には「(人間の)優劣はすでに先天に定まりて決して動かざるものなり」(「教育の力」)とする優生思想的考えの持ち主だった。
 福沢も「人種改良」という一文で「人間の婚姻法を家畜改良法にのっとり良父母を選択して良児を産ましむるの新工風あるべし」と論じている。
 そして「体質の弱くして愚なる者には結婚を禁ずる」か避妊させて「繁殖を防ぐ」べきだという。高橋の人種改良論はこの延長線上にあった。
 これに対して東京帝国大学総長などを務めた国法学者の加藤弘之が「人種の改良にあらずしてまったく人種の変更なり」(「人種改良の弁」)と批判した。ただ、加藤の反論は人権論からのものではなかった。
 「純粋なる日本人種にしてよく西洋人種に拮抗し、もってよく彼と開明を競い独立を争ってこそ日本人種の栄誉というべけれ」と、あくまで純血主義的発想からのものであった。加藤自身は人種の優勝劣敗を支持しており、考え方は福沢と同じだった。」
https://blogs.yahoo.co.jp/jaanet9000/47225613.html

⇒丸山眞男的な恥ずかしーい誤解をサンソムがしていますね。
 高橋にそう言わせたのは福澤だったわけで、福澤は「西洋思想心酔」者どころか島津斉彬コンセンサス信奉者の重鎮の一人であって日本文明の至上性を当然視していた・・それは断じて日本人種至上主義ではなかった・・はずであり、だからこそ、欧米人との混血による日本人の知力・体力の一層の改善を問題提起的に唱えたのでしょうに・・。
 加藤(1836~1916年)は但馬国出石藩の藩士ですが、青年時代から江戸で兵学、蘭学を学び、蕃書調所教授手伝を経て1864年に旗本となり開成所教授職並として幕臣になり、後に帝大総長になる、という経歴の、典型的な勝海舟通奏低音信奉者であり、彼のような人々の頭の固さを福澤にコケにされた、といったところでしょうか。(太田)

 そして日本人男性は自然淘汰と適者生存の法をわきまえて、いまの細君と離婚し、よりすぐれた肉体と知力をもつ西洋女性と結婚すべきだと奨励した。
 しかしかれは日本婦人も同様の策にでろとはいわなかった。・・・」(114)

⇒この論に関して、高橋は、ほぼ福澤の操り人形に他ならなかったというのに、サンソムは、調べが不十分なために大真面目に高橋に皮肉を込めた講釈を垂れてしまったわけであり、加藤のみならず、時代を隔ててサンソムまで、福澤は、ものの見事にコケにした、という構図です。(太田)

(続く)