太田述正コラム#10862(2019.10.15)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その46)>(2020.1.5公開)

 「・・・保守的感情の生長をもっともよく示してくれる一例を求めるならば、それはおそらく、1888年(明治21)、三宅雄次郎(雪嶺)<(コラム#9657、9853、9902、10282、10836)>の率いるグループによって雑誌『日本人』<(注55)>が創刊されたことであろう。・・・

 (注55)「1888年(明治21年)4月から1906年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治評論雑誌。1902年から、『日本及日本人』になった。
 言論団体政教社の機関誌である。同社は、志賀重昂、棚橋一郎、井上円了、杉江輔人、菊池熊太郎、三宅雪嶺、辰巳小次郎、松下丈吉、島地黙雷、今外三郎、加賀秀一、11名の同人により1888年4月結成され、同月『日本人』誌を創刊した。間もなく、杉浦重剛、宮崎道正、中原貞七が加わった。半月刊ないし週刊だった。・・・
 同人らには西欧の知識があった。政治的看板は国粋主義だったが、それは日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける極右では全くなく、志賀によれば次だった。『宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態に飽くまでこだわれというのではない。ただし西欧文明は、日本の胃腸で咀嚼し消化して取り入れるべきだ』(第2号所載『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す』の大意)。
 政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処分を受け<た。>・・・
 1906年(明治39年)、・・・三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。
 発行部数は、初期に500 – 600、盛期で4000足らずだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)

 <彼は、>儒教・仏教の思想家は「ドイツ哲学さえおよばぬ哲学の深奥を究めることができる」との説を持するにいたったひとだった。
 日本は、科学知識の摂取に成功すれば、やがて「哲学において全世界の最先頭に立つ」のになんの妨げもないはずだ」–と彼は考えたのであった。
 思想上のこの三宅の一派に対立する競争相手として、1887年(明治20)、徳富猪一郎(蘇峰)によってはじめられた雑誌『国民之友』<(注56)>があった。・・・

 (注56)「1887年(明治20年)創刊、1898年(明治31年)廃刊の月刊雑誌(一時週刊となった)。発刊元は徳富蘇峰の設立した言論団体の民友社である。・・・
 売れ行きにおいては、はるかに『日本人』をしのいだ。・・・
 ところが、日清戦争前後、あるいは戦後の下関条約に対するロシア・フランス・ドイツなどの三国干渉を機に蘇峰が国家主義的言論に転じたため、民友社の刊行物は読者に支持されなくなっていった。・・・
 1898年(明治31年)には・・・売り上げが急に落ち込み、蘇峰は同年8月『国民之友』『家庭雑誌』『欧文極東』を廃刊して、その言論活動を自身の創刊した国民新聞社の『國民新聞』に合併せざるをえなくなった。
 ・・・この雑誌は、・・・文学論、創作、詩、史学・史論など文化の面においてもきわめて著大な影響をあたえた。執筆陣には内村鑑三、新渡戸稲造、横山源之助、田口卯吉、中江兆民ら当代一流とみなされる知識人が動員され、二葉亭四迷、山田美妙、森鷗外らの創作や文学論、山路愛山や福地源一郎ら民間史家の論も注目された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B9%8B%E5%8F%8B

 この当時日本に広くみられた思想混乱について特徴的なのは、国の精髄の保全をもっておのが責務としていたのだから外国の影響には反対なはずの「国粋保存」運動が、政府攻撃という点では開明派と結託し、その際自分たちの保守主義をなんの邪魔」とも思わなかった、という一事である。
 その結果、自由主義的な観念は嫌いなはずの雑誌が、外国の学説の受け売り屋たちを支持し、かえってその雑誌が攻撃する政府の方が、民権よりも国家の威信の拡大をもってその政治の目標としている、というようなことになった。

⇒「混乱」しているのは、ここで登場する蘇峰もさることながら(コラム#10822参照)、むしろサンソムの方であり、政府部内にも民間にも、島津斉彬コンセンサス信奉者達をその典型とするような「国の精髄の保全」を当然視しながらも、「国家の威信の拡大」を図るために「開明」を推進しなければならないという考えの人々が活躍していたことに、何の不思議もないのです。(太田)

 三宅の主唱した保守主義は、その称揚する国粋の何たるかを明確にしなかったという点で批判を受ける余地はあるにせよ、とにかくこれまでの西洋文明に対する見さかいのない賞讃にひとつの終止符を打ち、日本人の間に自国文化と西洋文化とを批判的に再検討しようとの機運を生じせしめた。
 という点では有意義なものだった。
 三宅の保守主義は、また、国文学に対する関心を復活させ、帝国大学に古典研究の課程をいくつかもつ国文学科を創設させる上でも貢献があった。
 それと同時に一般にも、国文学研究をうながす動きがひろまって、1890年(明治23)には国学院が開設され、古典作品の新訂版、叢書類の出版も大いに促進されるようになった。
 教育も国語・国文・国史にこれまでにまさる力点をおいて改革された。・・・

⇒明治初期における、この20年余のブランクが、日本研究に回復できないくらいのダメージを与えた、と私は見ているところです。(コラム#省略)(太田)

 疑いもなく当局者たちは、内心では、自分たちの文明は工業化された西欧の物質文化よりも多くの点ですぐれていると考えていた。
 しかし彼らは口にしてはそうはいわなかった。
 そして日本民衆に対し、外国人の眼には洗練されていない、あるいは未開野蛮とさえ映じかねぬ諸慣習の改良を説きつづけた点で、彼らは終始一貫していたわけである。・・・」(114~115、130)

⇒サンソムは、少なくとも、政府の側は首尾一貫していたことに気付いていたようですね。(太田)

(続く)