太田述正コラム#10870(2019.10.19)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その50)>(2020.1.9公開)

 「当時出版された翻訳物の大半<は>、英語原典からのものだった・・・。・・・
 イギリスは安定した政治制度と海上勢力と経済の強大とを誇っていたが、それらはまさに当時日本人が、ぜひ自国にも樹立発展させたい、と願っていたものにほかならなかったのである。
 このような事情から、明治初期10年前後にわたって日本の文学の動きに及んだ西欧文化の影響は、ほとんどもっぱらイギリスの影響だった。
 フランス文学の作品でさえ、たいがい、英訳からの重訳によって紹介されていた。・・・

⇒私の言う、島津斉彬コンセンサス信奉者達にとっては、これに加え、英国こそが最大の仮想敵国だったことから、「敵を知る」必要があった、ということを、私なら付け加えるところですが・・。(太田)

 英語は、直接の働きかけよりもむしろ翻訳物を通して、日本語に対し革命的な作用を及ぼしたといえよう。
 つまり英語は、旧来の言と文との間の区別を廃止させ、口語体を散文上にも立派に通用するものとさせたのである。・・・

⇒下掲等を踏まえれば、このサムソンの主張には疑問符が付きます。↓
 「明治時代には、文学者の中から改革運動(言文一致運動)が起こった。言文一致小説の嚆矢は、坪内逍遥に刺激を受けた二葉亭四迷の『浮雲』などである。二葉亭が『浮雲』(1887年)を書く際には、初代円朝師匠の落語を速記法により筆記した、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたという。また、ツルゲーネフなどロシア文学作品を翻訳した文体も既存の文語からの離脱の試みである。当時は二葉亭以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E6%96%87%E4%B8%80%E8%87%B4
 「二葉亭四迷<は、>・・・ロシア語が堪能で同時代のロシア写実主義文学を翻訳、紹介した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E4%BA%AD%E5%9B%9B%E8%BF%B7

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[日本の新聞]

 「日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木製のものが多かった。現存する最古の瓦版は1614年〜1615年の大坂の役を記事にしたものである。・・・

⇒サンソムには、瓦版に一言触れて欲しかったところだ。(太田)

 1861年6月22日(文久元年5月15日)には英字新聞として『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日(10月21日)には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行された。・・・
 明治時代に入ると、・・・新聞が多数創刊された。1868年に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『中外新聞』、『江湖新聞』(1868年創刊)が、1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。1872年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。当時の明治政府は日本各地に無料の新聞縦覧所や新聞を人々に読み聞かせる新聞解話会を設置したほか、新聞を公費で買い上げたり郵便で優遇したりして各新聞社を支援していた。

⇒この、草創期における政府と新聞の癒着・・現在も残る記者クラブ制(後出)がその象徴・・が、日本の新聞の調査報道の弱さをもたらした、と私は見ている。(太田)

 1874年に民選議院設立建白書の提出などを契機として自由民権運動が盛んになると、それまでの御用新聞より民権派の勢力が強くなり、政府に批判的な論調が目立つようになった。こうしたことから明治政府は1875年に新聞紙条例、讒謗律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。・・・
 1874年に『讀賣新聞』、1879年に『朝日新聞』が創刊。1894年からの日清戦争、1904年からの日露戦争の戦時報道、1905年9月1日の『大阪朝日新聞』には「天皇陛下に和議の破棄を命じた賜はんことを請い奉る」という記事と8月29日のポーツマス条約の講和条件を引用などの新聞報道により起きた民衆の暴動事件日比谷焼打事件、その後の全新聞による「警視庁廃止」の論陣などを経て、従来の論説中心から報道取材が行われるようになる。1909年には新聞紙条例を経た新聞紙法が制定される。
 1890年、記者クラブ誕生。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%81%9E
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 日本における新聞の発達は、西洋からの直接の影響のはっきりとした一例である。
 というのは、日本在住の外国人が刊行した新聞が、日本人にとって一つの模範となり、それを彼らはじかに学ぶことができたからである。・・・
 <明治時代になると、>新聞とはほとんどいいかねるしろものであ<るところの、>不規則に刊行される雑誌の一種<が出現したが、>・・・それらの大半が、西南諸藩の威勢を怨み、これに激しい攻撃を浴びせようとする旧幕臣たちによって刊行されていた事実は興味ぶかい。
 なかでも、もっとも重要な位置を占めるのは福地源一郎<(注62)(コラム#4774、9835、10042、10732、19862)>が監修した『好古新聞』で、福地は、新政府は旧将軍政府よりももっと悪いとこぼした人であった。

 (注62)1841~1906年。長崎で医者の息子として生まれ、漢学、蘭学を学び、上京して英学を学び、幕府で翻訳業務に就き、万延元年(1860年)御家人、「通訳として文久遣欧使節に参加し、・・・慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴<いている。>・・・<更に>旗本・・・に取り立てられ<る。>・・・
 江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。・・・
 明治3年(1870年)、渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともに<米国>へ渡航し、会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官として<米欧>各国を訪れ、<また、>・・・一行と別れてトルコを視察して帰国。明治7年(1874年)、大蔵省を辞して政府系の『東京日日新聞』発行所である日報社に入社(主筆、のち社長)、署名の社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E

 これらの反政府新聞はみなつぶされ、福地は裁判にかけられ投獄された。・・・
 福地は十年後には政府新聞『東京日日新聞』の編集者となっている。・・・

⇒既に示唆したところの、旧幕臣の新政府批判は、単にルサンチマンの発揮に過ぎない場合が多い、ということを、以上の、福地の事績からもお分かりいただけるのではないでしょうか。(太田)

 唯一残ったのが、『太政官日誌』だったが、これは1868年(明治元)に創刊された一種の官報だった。
 これのあとにつづいたのが『新聞雑誌』(1871年、明治4)<(前出)>で、政府の見解を紹介するために木戸が使った定期刊行紙であった。」(152、155)

(続く)