太田述正コラム#10897(2019.11.1)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その9)>(2020.1.22公開)

 川島浪速は1914年に「対支管見」と題する意見書をまとめた。
 それは満蒙を中国から分離独立させて日本の保護国とするという、まさに石原莞爾の満州領有論を先取りする構想だった。
 川島は生まれるのが少しばかり早過ぎたのだ<(注23)>。

 (注23)「1914年9月以後、根津一の跡を継いで・・・東亜同文会・・・幹事長となった小川平吉は、以下のように主張している。日中両国は同盟して中国固有の領土を保全し、それを侵犯するものがある時は、日本は中国と共同して防衛する。中国は各国に対し勝手に政治上経済上其他に関し、特殊な利益其他を譲与してはならないとしたうえで、日本は同盟者である中国に対して以下の「援助」をする。「陸海軍の訓練を初とし外交、財政、教育、殖産、 司法、交通等行政各部に日本人を招聘せしめ内政の大改革を断行する事」、さらに南満州並に内蒙古を日中両国の共同統治の区域となす 事、膠州湾及び山東鉄道は当分の間ドイツの権利を継承すること、福建省を貫通して揚子江に連絡する鉄道を敷設すること等である。」(東亜同文書院大学記念センター長 馬場 毅 「辛亥革命と東亜同文会」より)
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8921&file_id=22&file_no=1
 なお、上掲には、1912年8月時点で川島が東亜同文会の評議員であったこと、第1次満蒙独立運動が「特務機関の多賀宗之少佐らの軍人と川島・・・が実行した。そのための資金は参謀本部と三菱財閥の岩崎久弥から提供された」ともある。

⇒「注23」からも分かるように、川島の主張は、彼自身も所属していたところの東亜同文会の当時の多数意見の満蒙部分とほぼイコールだったのであり、関岡の言うように川島一人が先見の明があった、というわけではなさそうです。(太田)

 一方、独立を宣言した外モンゴルは、1913年1月にチベットとのあいだで相互承認に踏み切ったが、ロシアと中国という大国同士の談合の結果、外モンゴルは中国の宋主権のもとでの自治国、内モンゴルは中国領とするキャフタ条約が1915年6月に締結される。
 これに反発して内モンゴルで再び中国からの独立を求める動きが起きる。
 パプチャップ<(注24)>というモンゴル人指導者の部下が密かに来日して救援を求めてきた。

 (注24)バボージャブ(1875~1916年)。「内モンゴル・・・に生まれ・・・1904年からの日露戦争では日本側の募った義勇部隊「満州義軍」に参加した。・・・1911年、辛亥革命が起こり外モンゴルでボグド・ハーン政権が樹立されると、内モンゴル各地のモンゴル人たちも政権へ合流した。・・・1913年にボグド・ハーン政権が内モンゴルに5方面軍を派遣した時、バボージャブは南東方面軍指揮官となった。・・・しかし、1913年11月の露中共同声明は、ロシアが中国の外モンゴルに対する宗主権を認めているもので、ロシアの圧力によりボグド政権は内モンゴル各地に派遣した軍隊を引き揚げざるを得なくなった。1914年から1915年にかけてキャフタで開催された露蒙中の三国会談で、モンゴルは中国の宗主権を認めさせられた。一方で、キャフタ協定を受け入れられないものであると考えたバボージャブは、政権が軍を引き揚げた後も、全モンゴル統一のため内モンゴルに留まっていた。・・・川島は大倉財閥から資金を、軍部から武器弾薬を手に入れ、大陸浪人や予備役軍人などの同志を募って現地に派遣した。1916年7月下旬、ハルハ川河畔から奉天を目指して南下したバボージャブ軍(「勤王師扶国軍」:約3,000名)は張作霖軍との戦闘を開始し<たが、>・・・日本政府は袁世凱の死去にともなって独立計画の中止に動き出していた。・・・
 <バボージャブの>次男<の>・・・カンジュルジャブ<は、>・・・一時期<川島の事実上の養女となった粛親王の娘の>川島芳子と結婚<・・但し、離婚することになる・・>し、のち満州国軍の将官となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96

 パプチャップは日露戦役のときに満州義軍として日本軍に協力したモンゴル人馬賊の頭目で、川島浪速とも旧知の仲であった。
 川島は再び支援に奔走、内モンゴルでの挙兵にこぎつけたものの、1916年、中国の支配者、袁世凱が急死する一方、パプチャップが張作霖軍との戦闘中に流れ弾にあたって死亡してしまい、第二次満蒙独立運動もあえなく失敗に終わる。
 だが、川島浪速の満蒙独立抗争は、16年後の1932年3月に満州国として実現する。
 その直前、粛親王は・・・旅順で川島に看取られながら亡くなった。」(63~66)

⇒第一次満蒙独立運動には三菱財閥が、第二次満蒙独立運動には大倉財閥が、それぞれ資金を提供しており、当時は、政府、就中帝国陸軍、と、民間の大陸浪人及び財閥、が手を携えながら、私の言う、横井小楠コンセンサスの遂行にあたっていた、ということです。(太田)

(続く)