太田述正コラム#10919(2019.11.12)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その20)>(2020.2.2公開)

 「・・・笹目が<林銑十郎>と初めて出会ったのは1925年(大正14年)頃のことだという<が、>・・・「<林は、笹目に、モンゴルから>更に一歩を進めて新疆省方面の回教徒研究に乗り出す気はないか」と問いかけ・・・<、「・・・外>蒙古は、もろくも共産陣営に崩れ去ったが、・・・回教という特殊な宗教勢力が、中央アジアからトルコに通ずる一線、これは単に新疆だけのものではないところに、なかなか一朝一夕に処断しかねる勢力をなすと思う。<」と語っ>・・・たという。・・・
 林は若い頃から川合清丸<(注45)>(かわいきよまる)という宗教思想家の薫陶を受け、川合や山岡鉄舟らが設立した日本国教大道社に参画していた。・・・

 (注45)1848~1917年。「父親が・・・因幡国・・・の神職<だったが、>禅<を>鳥尾小弥太<(コラム#10618)>より学<び、>・・・神道・禅・儒学の三道を融合して、「日本の国教」を確立しようとした思想家、宗教家。・・・山岡鉄舟・・・の援助のもとに、明治21年(1888年)に鳥尾小弥太、本荘宗武とともに「日本国教大道社」を設立。神儒仏三道による国教確立と反欧化主義を唱えた。大道社の幹事・執筆主任に就任した清丸は、機関誌『大道叢誌』への執筆を通じて多くの支持者を獲得し、大道社は国家主義の一大勢力となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%90%88%E6%B8%85%E4%B8%B8
 本荘(本庄)宗武(1846~93年)は、「丹後宮津藩の第7代(最後)の藩主。本庄松平家10代。・・・1873年(明治6年)からは開拓使として北海道の農業開拓に従事した。1875年(明治8年)、教部省大講義及び籠神社宮司に就任した。・・・1888年(明治21年)、・・・大道社の副社長となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%AD%A6

 <その林は、>総理大臣を辞任するやいなや、川合の死後に解散していた日本国教大道社を復興し、自ら第四代社長に就任した。
 林は國體と日本精神を至高の価値とし、生涯それを貫いた思想的軍人であった。
 國體廃絶の脅威、すなわち日本固有の価値観が共産主義という西洋発の普遍主義に脅かされるという危機感こそ、林の問題意識の起点であったはずだ。・・・

⇒そうではなく、林らは、欧米の諸文明・・「諸」という認識のない人々が、当時も今も大部分でしょうが・・はエセ普遍性の文明であって、日本文明こそ真の普遍性の文明だ、という意識であったはずであり、そのことは、川合が、日本由来の「神道」、インド由来の「禅(仏教)」、支那由来の「儒学」、が融合可能である、と直感的に悟っていたと思われることが示しています。
 恐らく、川合、山岡、島尾、本荘、林、らは、いずれも、この三つの教えの最大公約数が人間主義的なものであることが直感的に分かっていたのでしょう。
 (儒学に関しては、程明道と王陽明のそれに限定しなければなりませんが・・。)(太田)

 それにしても、林が笹目にこう語りかけたのは大正末期のことであり、松室孝良が満州建国後の次の一手として「蒙古国建設に関する意見」を起案するはるか以前のことである。
 この時点で林が早くも「新疆」すなわち東トルキスタンのみならず、中央アジアからトルコにかけてまで視野に納めていることに驚嘆せざるを得ない。・・・

⇒帝国陸軍の幹部のほぼ全員が信奉していたはずであるところの、横井小楠コンセンサスは、ロシアを最大の仮想敵国としており、対露緩衝地帯をそのロシアの国境沿いにできるだけ遠くまで設けることは、彼らにとって至上命題であった以上、かかる林の主張など、彼らにとっての常識の範囲内の事柄の開陳に過ぎないのであって、そんなものに「驚嘆」する関岡には、申し訳ないが「驚愕」させられましたね。(太田)

 林は日露戦役に陸軍大尉として出征した際、山岡光太郎<(コラム#10042)>という大陸浪人と知り合って親友となったという。
 山岡は林に、日露戦役で日本が勝ったとしてもロシアは決して極東進出を諦めない、それを阻止するには日本はトルコから東トルキスタンに至るイスラームと提携するべきだという持論を語った・・・。・・・
 <その>林は・・・最初の欧州留学の際に<既に>イスラームと邂逅してい<た>・・・。・・・
 <彼は、>その頃のドイツ参謀本部がさかんにイスラーム圏について調査研究し、諜報活動を展開していることに・・・興味を惹かれた<のだ>。
 当時のドイツは皇帝ヴィルヘルム2世の時代で、3B政策、すなわちベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バグダッドを結ぶ鉄道敷設に象徴される中東進出を画策しており、・・・林は第一次世界大戦勃発直前のバルカン半島を視察した。・・・
 サラエボはモスクのミナレット(尖塔)が林立するイスラーム都市であった。
 そして林の留学中に、奇しくもサラエボで一発の銃声が鳴り響いたのだ。・・・
 笹目恒雄に・・・<前出の>問いかけ<を行う>11年も前に、林自身がイスラーム研究を既に手がけていたのだ。
 モンゴルからイスラーム圏にかけて反共親日国家を樹立し、ソ連共産主義の南下を遮断する。
 これは後年、防共回廊構想とも、あるいは計画を推進したのが関東軍参謀副長時代の板垣征四郎少将だったことから「板垣征四郎構想」とも呼ばれた。
 だが、板垣征四郎は単に計画の遂行者に過ぎず、計画そのものを立案したのは陸軍きってのモンゴル通といわれた松室孝良であり、そのロマン派的思潮の源流は、陸軍の知られざるイスラーム通の大御所、林銑十郎だったのだ。」(98、100~104)

⇒私に言わせれば、横井小楠コンセンサスには(島津斉彬コンセンサス中の横井小楠コンセンサス部分を含め)ロマン派的思潮など存在しないのであって、対露(ソ)抑止の観点からの軍事的リアリズムが存在するのみでしょう。
 強いて言うなら、島津斉彬コンセンサス信奉者達は、この軍事的リアリズムに藉口し、或いは、を利用し、つつ、アジア主義なる「ロマン派的思潮」を展開させていった、あたりでしょうか。(太田)

(続く)