太田述正コラム#10931(2019.11.18)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その26)>(2020.2.8公開)

 1938年7月、米国のルーズベルト大統領は・・・対日輸出に許可制を導入し、1940年には・・・<対象>品目を追加した。
 許可制とはいっても、それは実質的な禁輸措置と大差ないほど過酷な条件で、日本経済の息の根を止めるに等しいものだった。

⇒日米共に加入していた不戦条約に照らせば、これは米国による対日戦争行為であった(コラム#略)上、米国が中国国民党政権側に事実上の現役空軍部隊を「義勇軍」として派遣し(コラム#略)、その後に日本は真珠湾攻撃を行ったのですから、日米戦争を開戦したのは二重に米国だったのであって日本ではないことを銘記しましょう。(太田)

 大日本回教協会が推進したイスラーム圏との通商拡大工作は、米国が主導する日本封じ込め政策への対抗措置という側面もあったのである。・・・
 1938年2月、中国回教<総>聯合会<(注60)>が北京に設立された。

 (注60)「名目上トップの委員長には地域の回民の崇敬を受ける<人物>が就任し・・・、<回民の>劉錦標が委員長と同格の諮議の座につき、<日本人の>小池定雄が・・・「聯合総部」・・・顧問<に就き、もう一人の>顧問の<日本人>高垣信三らとともに運営を主導する体制が敷かれた。」
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/77222/1/jaas087002_ful.pdf
 「劉錦標・・・はイスラーム学の教授に携わった父を持ちながらも、自身は十数年ものあいだ軍職に就き、後に帰郷独居し、『易理中正論』『説中』を著して、儒家の経典に基づく独自の思想を世に問うた。・・・1935年頃・・・クルアーン<(コーラン)>訳解<書である>・・・克蘭経選本訳箋註<を>・・・<満鉄>東亜経済調査局<から上梓している。>」
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/vm/c02_kindai/c0202_asia/c020202_kouran_kyousen.html

 <前年の>12月24日<に>発足した・・・新民会<(注61)>が漢人を対象とする宣撫機関であったとすれば、中国回教<総>聯合会は回民を対象とするそれであった。

 (注61)「日中全面戦争の開始以降,日本軍は華北に侵攻し,1937年12月14日,北京に中華民国臨時政府(以下,臨時政府)を設立した。同政府は 1940年,南京に成立した中華民国国民政府(・・・汪兆銘政権)に吸収合併されて華北政務委員会と改称するも,日本はこれを通じて占領下の華北を終戦まで間接統治した。日本の対華北占領統治は,基本的に満洲国の模倣であった。満洲国では「建国」理念とされた「王道楽土」,「民族協和」といった思想の普及を図るために,民衆教化団体として満洲国協和会(以下,協和会)が活動していた。華北統治にあたっても,現地民衆に新政権を擁護させる運動を起こす必要があるとして,北支那方面軍の主導で華北に設立されたのが中華民国新民会(以下,新民会)である。新民会は,「(臨時)政府と表裏一体の民衆団体」(「新民会章程」第2条)を標榜し,現地民衆の教化動員政策に重要な役割を果たした。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&ved=2ahUKEwi_h-_Y9fDlAhUFwosBHZ1iAu0QFjACegQIARAC&url=https%3A%2F%2Fwww.spc.jst.go.jp%2Fcad%2Fliteratures%2Fdownload%2F4355&usg=AOvVaw2hSLL4K2rohMoklnI7ZMpd
 小澤開作(1898~1970年)は、「山梨県出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)[に通いながら、金をかせぐためにバイオリン弾き、艶歌師などをやり苦労して]卒<業>。宣撫工作に従事するため満州・長春へ赴任。1928年に満州青年聯盟を、1932年に満州国協和会を結成し、さらに1937年には中華民国新民会を結成して活動した。・・・満州事変の立役者であった板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。満州での立場は満州国を日本の統治や傀儡国家としてではなく、五族協和の王道楽土として実現させようとする熱烈な理想主義者であった。・・・また・・・「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ。地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした。だから、岸が自民党総裁になったときにこんなヤツを総裁にするなんて、日本の未来はない」と語っ<たことがある。>・・・日中戦争の非を唱え<た>。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E9%96%8B%E4%BD%9C
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%20%E9%96%8B%E4%BD%9C-1641478 ([]内)

⇒小澤開作の石原莞爾との出会いが東京においてだったのかそれとも渡満後だったのか、ちょっとネットに当たった範囲では分かりませんでしたが、「五族協和/王道楽土」と「日<支>戦争非<戦>」は、両者、全く同じ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
であり、小澤が石原に心酔していたことを示しています。 
 この2人のような、小ぶりの理想主義者にして横井小楠(のみ)コンセンサス信奉者ほど、杉山元ら、島津斉彬コンセンサス信奉者中の指導者達にとって、使い捨て用に重宝した手駒となった者達はいなかったことでしょう。
 なお、小澤の岸信介評(「注61」)から、岸が権力欲に取り付かれた腐敗した人物であったことが窺えますが、恐らくこの岸評価は正しいのであって、まさに、岸は、戦後の、矮小化し堕落した日本型政治経済体制・・岸はその戦前版を作った一人であった(コラム#略)わけですが・・の二大首魁一族を生み出すところの、二人のご先祖様を二卵性双生児たる吉田茂と共にそれぞれ相務めることとなるのに、まさに「ふさわしい」人物であった、と言えそうですね。(太田)

(続く)