太田述正コラム#10937(2019.11.21)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その29)>(2020.2.11公開)

 茂川<は、>・・・北京軍事法廷で無期となり、その後に減刑があって、実刑数年の服役で日本に生還できた<のだが、>・・・驚くべきことに、茂川が減刑となったのは地元の回民代表たちが国民党軍の回民将軍、白崇禧(はくすうき)に助命嘆願書を呈上したためだという。
 諜報工作の責任者は、敵方に捕まればふつうは処刑を免れない<というのに・・。>・・・
 茂川秀和は・・・陸士<卒>だが、陸大には進学していないいわゆる無天組で、東京外語学校(現在の東京外国語大学)支那語科に1年間、北京にも1年間留学派遣された語学将校である。
 その後、・・・一貫して大陸で諜報畑を歩いた。・・・
 茂川は「<盧溝橋>事件後に学生を使って拡大の策動<を>やった・・・」と話したという。・・・

⇒帝国陸軍が日支戦争「拡大の策動<を>やった」という茂川証言は重要です。
 帝国陸軍が(中国共産党と密かに連携しつつ)日支戦争を始めた、というかねてからの私の指摘を補強する証言だからです。(太田) 

 生還後の茂川の動静について、驚くべき事実がある。
 ・・・<彼は、>昭和33年(1958年)、北京の中南海の懐仁堂で毛沢東と<会って>握手<している。>
 懐仁堂は、まさにその20年前に茂川自身が取り仕切った中国回教<総>聯合会の成立大会が開かれた歴史的建造物である。・・・

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[旧日本軍人達の中共訪問について]

 「もともと片山哲の訪中団に加わった遠藤に対して毛が「左派分子よりも右派人士に会いたい」と持ち掛けた(注70)のがきっかけ<となり>,張聞天<が>「客人招待の原則は右派をより多く」との新たな方針を示し,<旧帝国陸軍軍人である>遠藤<三郎>や辻<政信>を窓口にした交渉を本格化させる,という経過をたどっ<て実現し>た・・・

 (注70)「55年11月9日から,片山哲元首相が率いる憲法擁護国民連合代表団27人が訪中し,毛沢東や周恩来が片山らと会見した。
 毛沢東は片山一行の中に,元陸軍中将の遠藤三郎が加わっていることに注目し,握手した際,元軍人代表団を単独で結成し,訪中してほしいと要請した。さらにこう告げた。
 「左派分子よりもわれわれは右派人士に会いたい。特に遠藤先生のような軍人に会いたい」
 当時,周恩来の下で対日工作を取り仕切ったのは廖承志(共産党中央対外連絡部副部長)だった。廖は周からの指示を受け,北京空港から帰国の途に就く遠藤に「できるだけ早く軍人代表団を結成し,訪中してほしい」と伝えた。」
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16367&file_id=162&file_no=1

 中国<は>元軍人らに対し て過去の過ちを問うていな<かった>。
 逆にA級戦犯として終身刑を宣告された畑俊六を積極的に招待しようとしたり,対中侵略戦争に深く関わった磯谷廉介の訪中を歓迎したりした<くらいだ。
 但し、この2人については、日本側の事情で訪中には至らなかった。>・・・
 当時,中国外交を統括し<てい>た張聞天外交部副部長は56年4月30日,社会主義各国の駐中国大使に中国とアジアの交流状況などを説明した際,「対日関係」に関してこう紹介した。「われわれの客人招待原則は右派をより多く,あるいは中間派でも右に偏った人士を呼ぶということだ。進歩的な人士はもともと進歩的で,右派に向けて工作しなければならない。右派はもともとわれわれに反対している。もし中国に来てからまだわれわれに反対しても,われわれに何の損失もない。しかし少しでも影響があれば,われわれにもいくらかの結果があったということになる。過去の経験に基づくと,大部分で収穫があった」(上掲)というのが、中共当局の公式説明であり、他方、上掲論考執筆者の城山英巳は、「中国が作成した・・・「訪中問題始末」には, 日本政府が,元軍人を招聘する中国側の狙いを次のように指摘し,警戒を強めていたと言及している。(1)元軍人の中共に対する考え方を変えて日本の右翼勢力を分断する,(2)元軍人の反米意識を駆り立てる,(3)日本国内の情報を収集するなどという点が挙げられているが, つまり中国側は,日本政府が抱いていた警戒感をほとんど把握していた上で,より一層,元軍人の招聘に力を入れていたことになる。中国が元軍人訪中団を招聘する狙いとして, 日本側が指摘した上記の3点については確かに当てはまるが,これだけでないことが,中国の外交档案から読み取れる。1つは,元軍人が持つ日本政界への影響力という観点である。・・・ さらに中国が元軍人に期待したのは,「もう2度と日本と戦争をしたくない」という単純かつ重い課題を抱えていた点がある。」(上掲)、と、中共当局の3点からなる公式説明を額面通り受け入れた上で、自ら2点の説明を付け加えているが、前3点はウソであり、後2点は的外れである、と私は思う。
 <例えば、1957年>9月4日の面談日に、毛沢東は、旧軍人達に対し、「日本の軍閥がわれわれを進撃したことに感謝します。そうでなければわれわれはこんにち,北京にたどり着けなかったでしょう。過去にあなたたちはわれわれと戦争したが,中国を再び見に来ることを望んだ元軍人の皆さんを歓迎します・・・あなたたちはわれわれの先生です。感謝しなければならない。あなたたちが戦争し,中国人民を教育してくれたため,撒かれた砂のような中国人民は団結できた・・・ラオス, カンボジアは王国であり,日本は天皇制です。われわれはこれらを尊重しています。生物学者である天皇陛下と日本人民によろしくお伝え下さい」、と語った(上掲)が、まさに、こういったことを伝え、日本の旧軍の「戦友達」及び(日本文明の象徴たる)昭和天皇、更には日本人全体、に感謝の念を伝えることこそが彼が旧軍人達を招待した目的だった、と私は素直に受け止めている。
 どうして「左」の旧軍人達よりも「右」の旧軍人達を好んだかも簡単な話だろう。
 「左」は戦後の、占領軍作演出の風潮に迎合することで身すぎ世すぎをしようとした人々なのに対し、「右」は迎合することを潔しとせず不遇に甘んじた人々だからに違いなかろう。
 毛沢東は、自分の真意が伝わる人々が招待者の中に殆どいないことも百も承知していたに違いない・・杉山らは亡くなったか刑死した者が多いし、そのうち残った少数の者達の大部分は訪中を避けるであろうから・・が、それでもどうしても、当時と爾後の、日本の心ある人々には自分の真意が伝わるように、日本側に記録が残る形で語っておきたかったのだろう。
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⇒上の囲み記事に照らしても、中共との連携に係る実務に直接携わったところの茂川の中共招待は「驚くべき事実」どころか、むしろ当然のことだったのです。(太田)

(続く)