太田述正コラム#10943(2019.11.24)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その32)>(2020.2.14公開)

 ・・・茂川秀和の<長男>、茂川和夫氏も広幼の出身<だが、彼にとっても、また、>・・・次男の敏夫氏<にとっても、>・・・茂川秀和は非常に厳格で、畏怖される父親だったようだ。
 北京での回民工作について家族に一切語ったことがな・・・かったという。・・・

⇒これで、茂川が、杉山らの一員で、杉山構想の、中国共産党との連携を含む、少なくとも相当部分を知った上で工作活動に従事していたと見てまず間違いないでしょう(太田)

 次男の敏夫氏は1935年、母と姉とともに父の住む天津に移住した。・・・
 天津では、茂川秀和は日本租界にあった通称「茂川機関」と呼ばれた事務所で執務し、そのすぐ隣に自宅を構えて家族を住まわせていた。
 敏夫氏はそこで4歳から10歳までの6年間を過した。・・・
 姉君子は敗戦で帰国してから間もない1948年、父の帰国にまみえることなく、結核で短い生涯を閉じた。・・・
 閻錫山<(注76)(コラム#750、4980、5569、8115、9597、9599、10053、10905)>は・・・故郷の山西省を根拠地として独自の勢力圏を築き「山西モンロー主義」と号した。

 (注76)1883~1960年。「19歳のときに太原にある国立山西武備学堂に入学・・・。1907年・・・7月に日本へ留学し、東京振武学校(士官学校の予備校)を経て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中に孫文(孫中山)と知り合い、中国同盟会に加入した。・・・1909年・・・に陸軍士官学校を卒業して帰国している。・・・中華民国成立後の1912年(民国元年)3月、袁世凱から正式に山西都督に任命されている。都督に就任すると閻錫山は山西省の軍政両権を握る。当初の閻は孫文ら革命派ではなく、袁世凱らの北京政府を支持した<が、やがて>・・・北京政府とは不即不離の関係をとるようになる。・・・1927年・・・4月、閻錫山は国民政府から国民革命軍第3集団軍総司令に任命され、6月に易幟を公式に宣言した。・・・1936年・・・2月、陝西省から「東征」してきた紅軍(中国共産党)に・・・惨敗を喫する。これに危機感を覚えた閻は反共から「連共抗日」路線への転換を表明して共産党と和解し<た。>・・・<彼は>、「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内政に力を入れ、豊富な資源を利用して工業化を進め、山西省を模範省に育てた。こうして閻は山西派(晋系)の指導者として、中華人民共和国成立直前まで山西省をほぼ掌握し続けた。・・・
 1949年6月に行政院長兼国防部長に任じられたが、内戦の劣勢により・・・台湾に逃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%8C%AB%E5%B1%B1

 それを可能にしたのは全省炭田と言われたほど豊富な石炭資源であった。
 茂川秀和は北京での回民工作のかたわら、1941年から1年間、山西省で「対伯工作」と言われた閻錫山に対する招撫工作にも関与していたのだ。・・・
 中国共産党の本拠地、延安が位置する陝西省に接壌し、防共の最前線である山西省には、・・・洲之内徹(すのうちとおる)・・・のような転向者や・・・田村泰次郎・・・のような若手作家が宣撫要員として多数送り込まれていた・・・。・・・
 田村の『肉体の悪魔』と須之内の『棗の木の下』は、いずれも山西省太原での戦争体験が題材となっている。・・・

⇒彼らは、茂川によって、目的を明かされずに、手足として、中国共産党との広義の直接連携事務に使われたのでしょうが、有能(らしい)日本人を大勢使ったところに、中国共産党との連携を杉山らがいかに重視していたかが現れています。(太田)

 戦争が終結すると、閻錫山は北支那方面軍第一軍司令官だった澄田●<(貝偏に来の旧字)>四郎<(注77)>中将に中国共産党との内戦に協力するよう働きかけた。

 (注77)すみたらいしろう(1890~1979年)。幼年学校・陸士・陸大(首席)、フランス陸大。「陸大教官、参謀本部部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。野戦重砲兵第6旅団長、陸軍重砲兵学校長、大本営参謀(仏印派遣団長)・・・南部仏印進駐に際しても現地で折衝にあたる。翌8月、陸軍中将に進級。同年9月、第39師団長に親補され、宜昌の警備に当たる。1944年(昭和19年)11月、第1軍司令官に転じ、太原で敗戦を迎え、1949年(昭和24年)2月に復員した。なお、第1軍の将兵のうち2,600名・・・の残留が澄田と閻錫山との密約に基づくものであり、澄田は部下将兵を「売って」帰国したのである、という説がある。・・・
 長男<が>澄田智(日本銀行総裁)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E7%94%B0%E3%82%89%E3%81%84%E5%9B%9B%E9%83%8E

⇒澄田は、陸大首席であるにもかかわらず、陸軍省勤務がなく、参謀本部勤務の際にも枢要な職に就いた形跡がないことから、よほど伸びしろのなかった人物と見受けられ、杉山構想は彼には開示されておらず、だからこそ、戦後、中国国民党系の閻錫山に協力する・・恐らく事実でしょう・・などという判断ミスを犯したのでしょう。(太田)

 この結果、残留将兵約2600名が戦闘員として閻錫山軍に編入され、終戦後4年にわたって中国の国共内戦に参加した。
 これがいわゆる「山西省日本軍残留問題」で<ある>・・・。
 閻錫山は「対伯工作」の連絡将校だった茂川秀和を見込んでわざわざ北京に密使を派遣し協力を要請したわけだが、茂川はこれを断っている。
 そして娘だけを日本に帰国させ、自らは逃げも隠れもせず、北京に留まった。

⇒他方、茂川の方は、諜報工作担当者なので密かに帰国する等で身を隠すことができたであろう一方で、諜報工作担当者なので残れば処刑される可能性が高かったというのに、(恐らくは自発的に、)終戦直後、杉山らと中国共産党との連携工作の証拠隠滅、と、中国共産党との間での善後策の協議を行うために、あえて、現地に残留したのでしょう。(太田)

(続く)