太田述正コラム#10945(2019.11.25)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その33)>(2020.1.15公開)

 重慶軍が北京に入城すると、茂川秀和は・・・1946年2月1日に・・・真っ先に逮捕された。・・・
 翌1947年2月29日に起訴され、公判は6月28日にただ一度しか開廷されないまま、そのわずか一週間<後に>・・・極刑判決が下されている。・・・
 このとき茂川秀和が獄中でしたためた「昭和22年(1947年)9月下旬」付の自筆の遺書<に>・・・辞世の句が掲げられている。
  一點の雲なし今日の秋の空
  気は澄みて北平の碧き空
 ・・・からりと冴え渡った透明感のようなものが感じられて不可思議である。
 抜けるような紺碧の虚空に、深い諦観を投影したかったのだろうか。

⇒これは、「不可思議」でも「諦観」でもないのであって、茂川の本当の気持ちを吐露したものでしょう。
 第一に、「1947年3月には蒋介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換<せざるをえなくなった>。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導し<、>5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大<していたのに>対<し、>国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
ということが茂川に聞こえてきておれば・・彼に心を寄せる回民達や漢人達は収監先関係者達も含め大勢いたでしょうから聞こえてきていたはずです・・、彼は、連携相手の中国共産党の内戦での勝利を確信でき、達成感を噛み締めていたであろうからです。
 そして、彼が、杉山構想中のアジア解放部分を知っていたとすればですが、「1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタン・・・の二国に分かれて独立した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%88%86%E9%9B%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B
ということが茂川に聞こえてきておれば・・回民達はパキスタンの独立にとりわけ強い関心を抱いたと思われること一つとってもやはり聞こえてきていたはずです・・、彼は一層喜んでいたであろうからです。(太田)

 ところが・・・<11月>15日から突然、再審が始まり、同月22日に改めて無期の判決が下され<る。>・・・
 判決理由を見てみると、当初の死刑判決の罪状である「侵略戦争を支持する等の罪」に関して、国防部から「中華侵略戦争を支持せる罪を構成するものとは致し難い」という電命指示があったことが書かれている。
 そして驚くべきなのは、判決理由に「本件被告はその地位大佐に過ぎず、そのなせる工作は和平を倡導し、情報を蒐集すること等に外ならず」と書かれていることだ。
 当時の蒋介石政権の国防部長は回民の白崇禧<(注78)>である。

 (注78)はくすうき(1893~1966年)。「姓は旧来”Baiderluden”と称しペルシャ商人の子孫である。・・・広西省の陸軍学校では黄紹竑や李宗仁と同級生だった。・・・白崇禧は軍閥の時代、・・・黄紹竑、及び・・・李宗仁と同盟し、国民党指導者である孫文の支持者として有名になった。・・・<そして、>北伐における彼の戦場での功績に対して三国時代の英雄にちなみ「小諸葛亮」とあだ名された。・・・白崇禧は<、対日戦で>多くの重要な作戦にも関わった。その中には1938年春の山東省における・・・李宗仁と協力して得た・・・台児荘の戦いでの勝利がある。・・・その後、・・・1939年から1942年の間<の>日本軍による攻勢は<彼が指揮を執った>3度の長沙会戦ですべて撃退された。・・・<また、彼が派遣されたところの、林彪との>四平攻防戦は<国共内戦>期間における国民党の最初にして唯一の主要な勝利となった。1946年6月に、白崇禧は国防大臣に任命された<(~1948年)>。そのポストは蒋介石が白崇禧を外して国共内戦について主要な決定を始めたため権限を失った。蒋介石は白崇禧を招かずに彼の邸宅で日々の打ち合せを開き、指揮系統を通さず、個人的に最前線の部隊に対して師団レベルにいたるまでの指揮を始めた。蒋介石の省政府周りを堅め、地方を共産主義者に許す戦略が戦争当初には4:1の比率で数の優勢があった彼の軍隊の崩壊を・・・招<い>・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B4%87%E7%A6%A7

 茂川に対する初審の死刑判決が国防部からの電命指示によってわずか4ヶ月で覆されたこと、そして再審判決文に、茂川の工作は「和平を倡導」するものだったと明記されたという異例の事態は、・・・北京の回民たちが同じ回民である白崇禧に連署で茂川の助命嘆願書を呈上した<ことが白の心を動かしたに違いない。>

⇒その可能性を否定する材料を私は持ち合わせていませんが、(白崇禧は作戦についてこそ蒋介石に権限を奪われていたけれど、こういう案件についての権限は持っていたであろうことから、)本件への白崇禧の介入は理論上ありえたところ、仮に実際に彼の介入があったとすればですが、それは、少なくとも、死刑判決時点よりも前だった可能性が高い、と、私は思います。
 というのも、国家の重鎮だった人々を被告とした極東国際軍事裁判でさえ、判決言い渡しが終了したのは1948年11月12日で、死刑執行がなされたのは一ヵ月ちょっとしか経っていない12月23日であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
ことを想起すれば、茂川の死刑を現地司法当局の一存で4ヶ月も執行しなかったとは考えにくいからです。(太田)

(続く)