太田述正コラム#10947(2019.11.26)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その34)>(2020.2.16公開)

 ・・・茂川は北京の監獄に収監されたが、国共内戦が激化し危険が迫ったため、1948年4月に上海の監獄に移送された。
 翌1949年、敗色濃厚となった蒋介石政権は拘禁中の日本人戦犯の身柄を在日米軍に委譲したため、同年2月、茂川秀和らは上海から横浜に送致され、巣鴨拘置所に収監された。
 そして1952年8月5日、日本と中華民国が締結した日華平和条約の発効を見てようやく釈放されたのである。
 北京で逮捕されて以来7年の歳月が流れていた。・・・
 <茂川は、>北京勤政殿にて昭和31<(1956)>年<に>・・・かつて生死を賭けて戦った敵の領袖、毛沢東と会ったときはさすがに興奮して、何を話したか覚えていないと帰国後語っていた<という。>・・・

⇒元諜報要員が語ることなど、額面通り受け取るのは禁物です。
 そもそも、(それまで会ったことこそなかったでしょうが、)「かつて生死を賭けて戦った敵の領袖、毛沢東」ではなく、「かつて生死を賭けて共に戦った味方の領袖、毛沢東」であったわけですが、恐らく、事前に考え抜かれたところの、連携当事者達以外には何のことだか分からないけれど、連携当事者達の一人(相手側の元締め)であった毛沢東には分かり、その心をうつ言葉を茂川は直接伝えたはずです。(太田)

 一行は・・・北京<で>・・・国務院総理周恩来と会見し<た後、>・・・瀋陽(旧奉天)、長春(旧新京)、鞍山、旅順、大連・・・をめぐり、・・・<再び>北京<で今度は、>中国共産党主席、毛沢東と会見し・・・<更に、>蘭州、武漢、南京、上海・・・香港<、を巡るという、>・・・一ヶ月以上にわたる長旅<を終えて>・・・羽田に帰国した。・・・
 
⇒旧日本軍関係の支那の都市群を回る旅程を組んだところの、元日本軍軍人訪中団に対する、中共側、というか、毛沢東、の入れ込みようがいかほどのものだったかがひしひしと伝わってきませんか?(太田)

 茂川秀和<は、>・・・帰国後、「大陸はよくなっていたか」と質問され・・・、次のように書いている。・・・
 <まず、>「人間らしい幸福に反する道を辿っている」といいきっている・・・。
 <その上で、>中共は現在本気で日中友好国交回復を望んでいる。これに対する私見。
 a. 一と先ず額面通り素直に受けとるべきである。
 b. 然しこれが実施に当たっては常に用心深くあらねばならぬ。何故ならば中共は強度の統制国家である。為政者の考えによって何時でも、どんなにでも、直ちに、政策を変更し且つそれを実施に移せる国柄であるから
 一、大陸研究の緊急必要性
 『歴史深い隣邦であり、同文同種である』などと高を括っていたらとんでもないことになる。現在の大陸は全くの異国である。然もグングン変わりつつある。更に社会主義的経済建設面に於て若干年後には驚嘆すべき発展段階に達する…と察せられる中華人民共和国である。幸にして彼らは現在本気で手を差し伸べている。能う限りの機会を捉え且つ来往を繁くして彼等実態の究明に当たらねばならない。・・・

⇒関岡は、茂川の「人間らしい幸福に反する道を辿っている」を、中共の本質を喝破したものと受け止めているように読めますが、茂川は、中共は「グングン変わりつつある」と言っているのですし、少なくとも「驚嘆すべき発展段階に達する」頃までには中共が辿る道を変えている可能性を予期していた、と見るべきでしょう。
 要するに、ここで茂川が言っていることは、
一、中共当局は、戦略的には日中提携を追求しているが、様々な思惑から、その対日政策は戦術的には紆余曲折を辿ることになるだろう
二、中華(漢人)文明は日本文明とは全く異なるが、中共当局はそれを変革しようとしており、中共は、そのおかげで、大発展を遂げるだろう
三、日本は支那研究、就中中共研究に一層の努力を傾注する必要がある
ということであり、驚くべき慧眼である、というべきでしょう。
 つまり、我々は、これらの言葉を額面通り受け取ってよさそうであって、いわば第二の遺言として、茂川はこれらの言葉を我々に残した、ということだと思います。(太田)

 翌1957年、茂川秀和は再び中国を訪れている。
 こんどは元軍人団とは別のルートで、再訪に至った経緯や現地での行動など詳細は謎に包まれている。・・・

⇒毛沢東が、会った茂川の言葉に感銘を受け、茂川が帰国してから語ったことも恐らくは踏まえて、再び茂川を招待し、彼の中共のインナーサークルの部下達に対し、茂川の助言を求め、その助言に真剣に耳を傾けよ、と命じたに違いありますまい。(太田)

(続く)