太田述正コラム#10949(2019.11.27)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その35)>(2020.2.17公開)

 <ところが、その>茂川秀和は1957年、渡航<中に>北京のホテルで突然倒れ、かろうじて帰国した数か月後に脳溢血で昏倒してしま<う。>
 以後、1977年に亡くなるまでの20年間、話すことも、筆談することもできない寝たきりの状態のまま、<彼>はその謎に満ちた生涯を自宅の畳のうえで終えた。
 大陸との宿縁を復活させた茂川は、中国でどんな活動を展開しようとしていたのか。
 一切は、永遠の沈黙の内に封印されたのである。」(123~140、144~145、147、157~158、161、165~167、170~177、185~188、190~191、193、195~197、200、202~205、208~209)

 「・・・1930年代、「新疆省」・・・東トルキスタン・・では、当時「迪化(てきか)」と漢語で命名されていた省都ウルムチ<(注79)>に君臨する金樹仁<(注80)>(きんじゅじん)という漢人主席による苛斂誅求にウィグル人の不満が沸騰し、各地で反乱が頻発していた。・・・

 (注79)現在は、「人口は200万人を超える規模で中央アジア最大の都市タシュケントに匹敵する大都市である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%81%E5%B8%82
 「ウルムチの西南30kmの北緯43度40分52秒 東経87度19分52秒・・・は1992年の中国科学院による測量に基づいて世界で最も海から遠いアジア大陸の地理的中心<とされた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%B0%E9%81%94%E4%B8%8D%E8%83%BD%E6%A5%B5
 (注80)1879~1941年。「1928年に・・・<自ら>新疆省の実権を掌握。同年11月・・・に国民政府から正式に新疆省政府主席に任命された。金樹仁の5年間の新疆統治は腐敗と圧制に特徴付けられ、・・・<それまで>注意深く抑制されていた民族、宗教間の紛争が一気に噴出した。金は、漢人官吏を重用する一方、屠畜税の導入やメッカ巡礼の禁止により、ムスリム住民の反感を買っただけでなく、清朝時代以来、ハミで自治権を与えられていたムスリムの郡王家を廃止(改土帰流)するなど、現地民エリートからも反発を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A8%B9%E4%BB%81
 「改土帰流(かいどきりゅう)とは、元代から清朝初期にかけての王朝中央政府による地方の原住民に対する間接統治システムであった「土司制度」をしだいに廃止し、王朝中央政府直轄の州県制に転換させ、科挙に合格して選抜された「流官」を派遣し直接支配するという、明代以降の一連の制度転換をいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%9C%9F%E5%B8%B0%E6%B5%81

 <これに対し、>コムル・・・漢語名「哈密(ハミ)<(注81)>」・・・藩王の腹心だったホジャ・ニヤズ<(注82)>が反乱を起こした。

 (注81)「ハミ盆地にある・・・天山山脈最東部南のオアシス・・・<都市>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%AB%E5%B8%82
 (注82)写真。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hoja-Niyaz.jpg

 金樹仁軍に弾圧され窮地に陥ったホジャ・ニヤズは、民族は違えど同じムスリムである「東干(ドンガン)族」の馬仲英<(注83)>に救援を求めた。

 (注83)生没年不詳。馬家軍の有力頭領。「1931年・・・、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の馬歩芳の攻撃を受け、酒泉へ逃れた。同年中に、今度は新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁と交戦した。しかし、クムル(哈密)を攻略できず、河西へ退却した。
 1932年・・・、馬仲英は、蒋介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌1933年・・・5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席盛世才と交戦した。馬は、トルファンなど13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年・・・、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国(第1次)とホータンのイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、ソビエト連邦へ向かい、空軍に加入した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E4%BB%B2%E8%8B%B1

 東干族とは甘粛省、寧夏省、青梅省など西北地方に居住する回民のこと<だ。>
 馬仲英は甘粛省に生まれ、<十代の時から>急速に頭角を現した若き軍閥である。・・・
 一方、東トルキスタン南部に位置するシルクロードのオアシス都市ホタン<(注84)>では、・・・ウラマー(導師)だったムハンマド・イミン・ボグラ<(注85)>が武装蜂起に成功し・・・また、サビド・ダームッラー<(注86)>は、コムルで反乱を起こしホジャ・ニヤズの軍勢と合流し、ここにウイグルの二大勢力は大同団結を果たすことに成功した。

 (注84)ホータン。現在の新疆ウイグル自治区南西端に位置するオアシス都市。「古代のホータンは「于闐」(ウテン・・・)と称され<ていた。>・・・<当時>の住民は<白人>に属し、ホータン・サカ語は<印欧>語族に分類される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%B8%82
 (注85)ムハンマド・アミーン・ブグラ(1901~1965年)。「ウイグル族で、・・・汎テュルク主義者・・・東トルキスタンイスラーム共和国<(後出)崩壊後、>・・・1935年<に>日本の<在アフガニスタン公>使に「日本の支援のもと、東京から供給される装備と資金により、『東トルキスタン共和国』を建国する詳細な計画」を提案した。彼はこの中央アジア版満州国の未来の指導者として、誰よりもまずマフムード・シジャン (マフムート・ムヒティ・・・、1934年7月・・・より新疆省地方軍の一部である駐カシュガル第6ウイグル師団長)を、 大東亜共栄圏 のような政治組織を構成する一員に迎えられるべきものとして提案した。しかし、・・・マフムードが命の危機を感じて1937年4月・・・インドへ脱出したため、アミーンの計画は挫折した。 ・・・
 <その>後に中国国民党に加入して、中央監察委員となり、新疆省副主席を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%B0%E3%83%A9

 <そして、>ウイグル連合軍は東トルキスタン西部の一大中心都市、ウイグルの旧都とも言うべきカシュガル<(注86)>を急襲した。

 (注86)現在の新疆ウイグル自治区西端に位置する都市。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%82

 カシュガルを統治していた行政長官金樹智(新疆省主席金樹仁の弟)は自殺に追い込まれた。

⇒このあたり、20世紀も中頃近い時代とは到底思えないような話が続きますね。(太田)

(続く)