太田述正コラム#10951(2019.11.28)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その36)>(2020.2.18公開)

 1933年11月12日、ウイグル人はカシュガルで東トルキスタン・イスラーム共和国の独立を晴れやかに宣言、晴天星月旗が翩翻と翻る蒼穹に、祝意を告げる号砲が殷々と轟いた。
 ウイグル人の二大勢力を代表してホジュア・ニヤズが大統領に、サビド・ダームッラーが総理大臣に就任、天山山脈に谺する歓呼の声に迎えられた。
 新政府は憲法を発布してイスラームを国教とし、シャリーアを基本法と定め、独自の通貨を発行した。・・・
 一方、中華民国内部では、事態を防げず無能を曝け出した新疆省主席、金樹仁が失脚し、その部下だった盛世才<(注87)>が辺防督弁に就任して軍権を掌握した。

 (注87)1892~1970年。「1917年に日本の明治大学に留学したが、ヴェルサイユ講和会議での旧ドイツ権益の日本への譲渡<等>・・・に憤慨して、<支那>に帰国。その後、国民政府の軍官学校である雲南講武堂韶州分校に入学した。
 その後、奉天軍閥の郭松齢の支援により、日本の陸軍大学校に留学。1930年には、新疆省政府からの招きで、新疆に赴き、当地の軍官学校の教官に任命された。
 1932年に、ハミのホージャ・ニヤズが反乱を起こし、甘粛の回族軍閥(馬家軍)の馬仲英を誘い、馬仲英の部下馬世明とともに省都ウルムチを攻撃したが、盛世才は省政府軍を指揮してこれを2度にわたり撃破した。・・・
 1933年4月12日に、省政府内で参謀処長の陳中らが東北抗日義勇軍の残部やソビエトから逃亡してきた白系ロシア人部隊と組んでクーデター(四・十二クーデター)を起こした。盛世才は静観を決め、軍事力がなかった新疆省政府主席の金樹仁はすぐに負け、ソ連に亡命を追いやられた。この結果、軍事力や威信があった盛世才は新疆省臨時督弁に推挙された。
 ・・・1933年6月、新疆の内乱の平定及びを国民政府への編入のため南京から宣慰使として派遣された黄慕松が盛世才を追い落そうとするのを盛世才が気付き、6月25日、盛世才は四・十二クーデターの首謀者の陳中ら<を>謀反罪の名目に銃殺し、黄慕松を軟禁した。・・・
 国民政府はこれを追認せざるを得ず、8月1日に盛世才は新疆辺防督弁に正式に任命された。また、盛世才はソ連軍の支援を得て、ウルムチを脅かしていた馬仲英軍を撃退した。さらに、新疆東部を支配していた東トルキスタン・イスラーム共和国勢力に対して、ソ連を仲介して接触し、共和国大統領ホージャ・ニヤズを省政府側に寝返らせ、共和国を崩壊させた。
 1933年12月には、国民政府が任命した省政府主席劉文龍を軟禁して、老人の朱瑞墀を政府主席に据えた。1934年3月に朱瑞墀が病没すると、国民政府はやむなく盛世才を新疆省政府主席に任命した。盛世才は、省政府の漢人官僚から反対勢力を一掃する一方、ソ連への配慮から、ホージャ・ニヤズを省政府副主席に任命するなど、ソ連の支援を受けていたテュルク系ムスリム勢力との宥和を図った。
 盛世才は、・・・ソ連の支援の下で内政の改革を行う「進歩的」政策を標榜した。・・・
 1936年には、「日本帝国主義勢力の浸透を防ぐため」と称して、新疆省への入境に査証を義務化し、<支那>内地からの影響を遮断し、新疆を事実上独立国のように統治した。
 これに対し・・・国民政府は、ソ連からの軍需物資の輸送ルートとして新疆を重視しており、抗日戦争に協力していた盛世才への批判を控えざるを得なかった。
 盛世才政権<で>は、・・・ソ連から派遣された要員<が>省政府の各官署に顧問として配置され大きな影響力を行使していた。さらにソ連は、盛世才の統制外にある秘密警察を直接掌握しており、さらに、ホージャ・ニヤズらテュルク系ムスリム勢力との接触も維持していた。盛世才は親ソ勢力に自己の権力基盤が崩されるのを恐れ、1937年<7月に盧溝橋事件、8月に第二次上海事変が勃発していたところ、>10月に「日本帝国主義のスパイ」の罪状でホージャ・ニヤズらを、12月に「トロツキスト」の罪状でコミンテルン要員を逮捕した。
 <その前から、>盛世才は、<1935年8月以来、毛沢東が掌握するところとなっていた>中国共産党に接近し<ており>、陳潭秋、毛沢民(毛沢東の弟)・・<毛は>財務大臣に据え<た>・・、林基路ら共産党幹部を招聘し・・・<盧溝橋事件のあった>1937年7月にはウルムチに八路軍の代表所が開設された。
 <その一方で、>1939年、盛世才はモスクワを訪れてスターリンと会談し、ソ連共産党への入党を申請するなど、ソ連との結びつきの維持<も>謀った。・・・
 <しかし、>1940年春には、ソ連要員を「日本帝国主義のスパイ」として逮捕する第二次粛清<を>行<っ>た。この結果、新疆での中国共産党の影響が<更に>強まることとなった。
 1942年<6月に始まった>独ソ戦でのソ連側の戦況悪化を見た盛世才は、ソ連に<完全に>見切りをつけ、国民政府に寝返ることを決意し・・・、<さらに、>8月に起きた実弟盛世騏の暗殺事件を、中国共産党によるものと断定して共産党要員を逮捕し、国民政府への忠誠を表明した。1943年には、陳潭秋、毛沢民、林基路ら中国共産党員<を>処刑<し>た。
 これ<を受け>、国民政府は、新疆に軍を派遣し、省政府の接収を図った。1944年、国民政府の圧力に屈した盛世才は、重慶の国民政府の農林部長に任命される名目で、新疆を離れることを余儀なくされ、「新疆王」による10年間の統治は幕を閉じた。・・・
 盛世才は、新疆での統治において、「日本帝国主義の脅威」を盛んに唱え、強権的な政治体制を正当化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E4%B8%96%E6%89%8D

⇒杉山らは、新疆は中国共産党に任せることにしたと思われるところ、帝国陸軍を直接「利用」できなかった新疆の少数派たる漢人勢力は、多数派の(ウイグル人と回民からなる)イスラム教徒達を「統治」するため、相互に微妙な協力/抗争関係にあったところの、中国国民党、中国共産党、ソ連、に小突き回されつつ、何とか「利用」しようとしたわけであり、そのことに、漢人勢力の中で最も成功を収め続けたのが盛世才であった、ということでしょう。
 それにしても、盛世才、せっかく日本に何度も留学したというのに、日本の人間主義には生涯無縁で終わったようですね。(太田)

(続く)