太田述正コラム#10959(2019.12.2)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その40)>(2020.2.22公開)

 北田は帰朝後に出した私家版『時局と亜細亜問題』のなかで、アフガニスタンのワハン回廊<(注92)>こそ、日本とドイツが計画していた「欧亜連絡航空路」という航空路線の予定ルートであり、「将来の世界政策的要地である」と書いている。・・・

 (注92)ワハーン回廊(Wakhan Corridor)。「パミール高原を東西に貫くこの地域は、西を本土とわずかに連絡する他は北をタジキスタン、東を中華人民共和国(新疆ウイグル自治区カシュガル地区タシュクルガン・タジク自治県)、南をパキスタン(カシミールの一部を含む)に囲まれた東西200km、南北15kmの狭隘な高原である。・・・かつてはタクラマカン砂漠を通って東西を結ぶシルクロード、いわゆる「オアシスの道」の一部をなす重要な経路であった。19世紀にはグレート・ゲームの主要な舞台となる。1890年に、フランシス・ヤングハズバンド<(コラム#10881)>が南下するロシア帝国のブロニスラフ・グロンブチェフスキー率いるロシア軍兵士にワハーン回廊のボザイ・グンバズで拘束されそうになる事件が発生し、[それが直接の原因ではないが、]1891年に英領インド帝国はフンザ藩王国とナガル藩王国を相手にフンザ・ナガル戦争を開始した。その結果、親英のアフガニスタンに組み込まれ、<英露>両勢力間の緩衝地帯となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%9B%9E%E5%BB%8A
https://en.wikipedia.org/wiki/Hunza–Nagar_Campaign ([]内)

 1936年12月に・・・満州航空<と>・・・ルフトハンザ社・・・のあいだで日満独航空協定が調印された。
 翌年3月、この計画の推進を閣議決定したのは、ほかでもない防共回廊構想の「思想的源流」林銑十郎内閣だった。
 欧亜連絡航空路は、満州帝国の首都新京から内モンゴルの包頭、アラシャン、オチナ、東トルキスタン各地、そしてアフガニスタンのカブールを結び、ソ連のシベリア鉄道、英国のインド航路に対抗して、日独が空からシルクロードを制覇するという気宇壮大な構想だった。
 ベルリン、ビザンチウム(現在のイスタンブール)、バグダッドを鉄道で結ぶ三B政策にとってトルコからイラク更に隣接するイランへと勢力拡大を目指すドイツ第三帝国と、満州、内モンゴルへと勢力を拡大した大日本帝国が、隣接する東トルキスタンへ進出して、最終的にアフガニスタンのこの細長いワハン回廊でリンクするという遠大な世界戦略であった。・・・

⇒「1928年に日本とアフガニスタンの国交が樹立され、1934年、首都カブールに日本公使館が開設され<た>」(前出)というのに、帝国陸軍は、公使館が設立された「1934年1月、<某>少佐にアフガニスタン出超を命じてアフガニスタン情勢の調査をおこな<わせただけで>、1936年11月に<もなって、ようやく、>・・・駐在武官<を>カブールに着任<させ>た」
https://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-085-095.pdf
くらい、同地に関心が低かったわけです。
 駐在武官の派遣は、帝国陸軍が、陸軍出身の林首相がご熱心なのと、提携関係を推進中であったナチスドイツが同地に強い関心を有していたことから、重い腰を上げて形だけつけた、といったところではないでしょうか。
 関東軍/満州航空(注93)の欧亜連絡航空路の追求も、そういうことだ、と、私には思えます。

 (注93)「満洲航空は「満洲国」成立約半年後の1932年9月、関東軍の要請により設立された民間会社であるが、この会社は、前身の日本航空大連支所時代も含め、満洲事変期に積極的に関東軍に徴用され、とくに1933年2月の「熱河作戦」では「空中輸送隊」を編成し、関東軍の指揮下に入った。このように満洲航空は、初発より「関東軍の空軍」という性格を強く有していた。」(上掲)

 そもそも、航空路は、当時の輸送機の搭載可能重量(典拠省略)からして、速度は別として、インド航路やシベリア鉄道に対抗できるようなものではなかったはずです。
 とまれ、この構想は、いまや、欧州側の寄与なくして、中共一国で推進されつつあるところの、(欧亜連絡路として、シベリア鉄道をバイパスし、陸は鉄道と道路で、海上はインド洋・地中海航路で結ぶ、)一帯一路(One Belt, One Road Initiative)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF
構想という形で蘇っている、とは言えそうですね。(太田)

 <話は変り、>東トルキスタン・イスラーム共和国軍の指揮官をつとめた・・・マフマード・ムフィティというウイグル<人は、>・・・<この>共和国崩壊後、・・・新疆省政府軍の騎兵第6師団長としてカシュガルに駐屯していたが、1937年4月、突然、部下数十名を率いて英領インドのカシミールに亡命した。・・・ 
 <彼は、>1939年3月2日、イギリス官憲の監視を逃れてボンベイを出航し、4月1日に神戸に上陸、同6日に東京に到着した。・・・
 <その、彼らは、>北京<経由で>・・・内モンゴルの厚和に移動した。・・・

(続く)