太田述正コラム#10961(2019.12.3)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その41)>(2020.2.23公開)

 厚和には、・・・日本領事館以外にも、・・・厚和特務機関をはじめ、様々な日本の機関があった。・・・
 <その地で、>マフマード・ムフィティ<は、>・・・1943年に・・・最期<を迎えたとされる。>・・・
 <残りの>ウイグル人独立運動家たちは日本の敗戦後、東トルキスタンに戻っていったが、1949年に中国共産党が東トルキスタンを「和平解放」した際に全員殺害されたと<いう。>
 ・・・1944年4月、ソ連と国境を接する東トルキスタン北部に位置するイリ地方のクルジャ(漢語名「伊寧」)にウイグル人国家の独立を目指す「クルジャ解放組織」が結成された。 
 その構成員は、イリハン・トレ<(注94)>を中心とするイスラーム聖職者と、アブドカリム・アバソフ<(注95)>を中心とするソ連帰りの知識人などの左右混成であった。・・・

 (注94)アリハーン・トラ(1884~1976年)。「<キルギスの>トクマクで生まれ、青年期は<ウズベクの>ブハラでクルアーンや医学を学んだが、1924年には非合法のイスラム教団体を組織した罪でソビエト連邦の治安当局に逮捕されている。1927年にソ連から中華民国のカシュガル市に脱出するが、1937年に盛世才によって逮捕されている。1941年に釈放され、グルジャ市でイマームとして活動する。1944年4月に・・・新疆解放戦線をグルジャで組織し、11月11日にソ連の支援を受けて武装蜂起する(イリ事変)。翌12日、解放戦線はグルジャを制圧して第2次東トルキスタン共和国の独立を宣言し、トラは政府主席に就任した。1945年4月8日にはイリ民族軍を創設し、元帥の称号を授与された。1945年9月、トラが指揮するイリ民族軍がウルムチ市への侵攻を開始する。イリ民族軍は国民革命軍を敗走させるなど勝利を重ねたが、10月14日に国民政府とソ連政府との間で和平交渉が開始され、ヨシフ・スターリンからウルムチ攻撃を停止するように命令される。トルキスタン政府の幹部は命令に従うが、トラは政府幹部の中で唯一スターリンの命令に従おうとしなかった。1946年6月12日、ウルムチで蒋介石との間に和平合意が締結されるが、その6日後にKGBによってソ連に拉致された。拉致されたトラはウズベク・ソビエト社会主義共和国のタシュケントに・・・同地で病死するまでの間・・・軟禁され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9
 (注95)アブドゥルキリム・アバソフ(1921~49年)。「キルギスのカラコル生まれ。1926年に<グルジア>に移住した。1945年11月~1947年2月、東トルキスタン人民革命党の執行委員会議長。同党は地下組織であり、中国国民党に反対し、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)と中国共産党側に立つことを宣言した。1947年2月、東トルキスタン人民革命党は、新疆共産主義者同盟と連合し、アバソフは、東トルキスタン人民革命党中央委員会議長となった。1948年8月、東トルキスタン人民革命党が解散され、党員は、クリジ<?(太田)>で創設された新疆平和・民主主義擁護同盟に移った。1949年、中共政府との交渉のために、飛行機でアルマ・アタ経由で北京に向かった。その後については諸説がある。新華社の公式情報によれば、8月25日、アバソフ等を乗せた飛行機は、イルクーツク近郊で墜落したとされる。別説によれば、8月27日、モスクワ・・・で殺害されたともいう。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%BD%E3%83%95

 イリハン・トレはウイグル人ではなくソ連から亡命したウズベク人だったが、クルジャ最大のモスクを拠点として「反漢排漢」、盛世才へのジハードを提唱し、ウイグル人のあいだで声望が高かった。
 同年11月12日、クルジャ解放組織は1933年の東トルキスタン・イスラーム共和国の建国と同じ日を選び、東トルキスタン共和国<(注96)>の独立を宣言し、イリハン・トレが臨時政府主席に就任した。・・・
 
 (注96)第2次東トルキスタン共和国。「1944年にイリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で蜂起した独立軍が同年11月12日に建国した。・・・当時10区あった新疆省の行政監察区のうち、第2(イリ)、第5(タルバガタイ)、第6(アルタイ)の三地区を支配したことから「三区革命」と<も>呼ばれている。・・・
 反乱軍にはソ連軍(赤軍)が、装備、要員面で協力しており、12月までにイリ地区の全域が反乱軍の手に落ちた。また、翌1945年には、ソ連領の西トルキスタンで教育や訓練を受けたカザフ人のゲリラ勢力が、アルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流した。共和国の元になった反乱軍は親ソ派ウイグル知識人のアブドゥルキリム・アバソフが指導していたが、共和国政府は、ウイグル人だけではなく東トルキスタンに居住する全テュルク系ムスリムを糾合させる汎テュルク主義を標榜していた。共和国の主席には親ソ派ウズベク人の宗教指導者で主戦派のアリハーン・トラが、副主席にはグルジャの名家出身の有力者アキムベク・ホージャ・・・が就任し、ムスリム社会の上層部の人々が積極的に政権に招聘された。しかし実際には、共和国は軍事部門を中心に、ソ連国籍を持つロシア人やテュルク系民族出身の要員に指導されており、ソ連の強い影響下に置かれていた。共和国政府では、中国国民党との交渉で台頭した親ソ派のアフメトジャン・カスィミが次第に実権を掌握していった。
 1945年9月、東トルキスタン軍が、ウルムチへの進軍を始めたため、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請した。「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はアリハーン・トラ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国は1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流し、東トルキスタン・イリ専署(イリ専区参議会)と改称した。しかし、新疆省政府と東トルキスタン・イリ専署が合同して成立した新疆省連合政府は1947年5月ごろに崩壊し、副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去して、かつての東トルキスタン共和国の領域を再び支配しはじめた。同年翌月にはソ連の支援を受けたモンゴル人民革命軍と中華民国軍が新疆で武力衝突した北塔山事件が起きた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E6%9D%B1%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
 「北塔山事件とは1947年6月5日に、当時の中国新疆省(現、新疆ウイグル自治区)東北部とモンゴルの国境紛争地域である北塔山辺りで起こった中蒙武力衝突を指す。・・・
 1947年半ば、国共内戦は大きな転換期にあった。・・・国民政府は経済・社会・ 政治・軍事などあらゆる面で苦境に陥っていた<からだ>・・・
 <この>事件<は>、単に国民政府の対ソ強硬策を招く契機 となっただけでなく、アメリカから全面的な支援を引き出すための口実として、国民政府 に最大限に利用された」
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/yoshida.pdf

⇒第2次東トルキスタン共和国が作られた当時は、前にも述べた、「中国国民党と中国共産党とソ連との・・・相互に微妙な協力/抗争関係」が、まだ続いていたところ、ソ連と米国は事実上同盟関係にあって日本と敵対しており、中国国民党は米国と同盟関係にあって米国と共に日本と戦争をし、他方で、中国共産党は日本と事実上同盟関係にあったわけであり、ソ連は来るべき対日参戦を中国国民党にできるだけ高値で売りつけるための、取引材料の一つとして、この共和国を作った、と見ていいでしょう。
 スターリンが、ずっと泳がし続けたけれどもついに用済みになったアリハーン・トラを口封じ等の目的で殺害しなかったことは、この殺伐たる第2次東トルキスタン共和国挿話の中で、一服の清涼剤かもしれませんね。
 なお、国共内戦時に、中国国民党が、米ソ冷戦下で、米ソどちらかを同盟関係から落とさなければならなくなった際に、ソ連を棄て、米国との関係強化を図るために北塔山事件等を「活用」したのは、ごく自然なことでしょう。(太田)

(続く)