太田述正コラム#10182005.12.26

<徒然なるままに(その5)>

 (オフ会を手伝ってもよいというお申し出がなかったので、私の事務所で下掲のとおりオフ会を開催することにしました。西武新宿線野方駅と西武池袋線練馬駅の中間点よりやや野方駅よりで、野方駅から徒歩15分くらいかかります。参加ご希望の方は、ohta@ohtan.net宛、前日までにご連絡下さい。(参加希望者がなければ、中止します。)

日時:1月21日土曜日1400?1730目途。

場所:〒1760014練馬区豊玉南3-10-12 野方パークハイツ305号。電話:03-3992-3342

会費:500円。(飲み物等を出します。))

 フレッド是松(1919?2005年)氏については、要旨次のように書かれています。

 日本軍が真珠湾を攻撃してから二ヶ月ちょっと経った1942年2月、ローズベルト大統領は、米国市民であると否とを問わず、日本人を祖先とする西海岸の住民は敵性外国人とみなすという行政命令9066号に署名した。その結果約10万人の日系米国人が10箇所の収容所に収容された。

 しかし、当時23歳だった是松氏は、イタリア系米国人の恋人と逃走し、眼の美容整形手術まで受けて、追っ手の目を眩まそうとまでした。しかし、3ヶ月後に逮捕された是松氏は、保釈金を払ってくれる人がいたにもかかわらず、釈放されないまま収容所送りとなった。そこで氏は上記行政命令は違法であると裁判に訴えたが、恥ずべきことに最終的に最高裁は、6対3で氏を敗訴させた。

 1981年になって、氏は再審に打って出た。自分が無罪とならない限り、いつ何時米国市民が、裁判や聴聞なしに牢獄や収容所に入れられるか分からない、というのだ。

 今回は氏は無罪を勝ち取った。

 1998年にはクリントン大統領が氏に自由勲章を授与した。

 2004年には、グアンタナモで再び米国は、かつて自分達に対して行ったような収容所送りをテロ被疑者に対してやっている、と怒りを表明した。

 氏は、日系人にとって、黒人にとってのローザ・パークス(Rosa Parks。コラム#984)のような人物だったが、収容所の中でも、そして戦後においても、氏は日系人達からトラブルメーカーとして冷たい視線を浴び続けた。

勲章をもらったことを除けば、報われるところの少ない人生だったが、先月、カリフォルニア州のデービスで、亡くなった氏を記念して、ある小学校にフレッド是松小学校という名称がつけられた。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/25/magazine/25korematsu.html?pagewanted=print1225日アクセス)による。)

 吉沢章(1911?2005年)氏については、要旨次のように書かれています。

 晩年に日本の人間国宝となった吉沢章氏は、若かりし頃、仏教の僧侶になろうと思ったことがあった。

 氏は、作品に取りかかる前にお祈りをする。そして彼の生み出す立体折り紙の作品は、まるで生きているようであり、子供のいなかった氏は、作品を彼の子供のように慈しんだ。

 1950年代初めには氏の展覧会がオランダで開かれたことをきっかけに、氏の作品、ひいては日本の折り紙が世界で知られ、世界で折り紙ブームを引き起こす。

 当時占領軍として日本に駐留していた米軍の兵士達も、帰国すると折り紙の話をしたものだ。

 折り紙ブームが起きたのは、折り紙が、安い材料を見事な作品へと変身させる、子供の純真な心と東洋の形而上学を体現した革新的な営みだったからだ。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/25/magazine/25yoshi.html?pagewanted=print1225日アクセス)による。)

最後に、NYタイムスの本紙に載った、遠藤ゆうき君についての記事には要旨、次のように書かれています。

遠藤ゆうき君は、1996年の初め、わずか10歳の時にお母さんに連れられてニューヨークにやってきた。

ゆうきはダウン症ではないが、より稀な、4万人に1人のY染色体異常を持って生まれてきたため、智恵遅れで発育不全であり言葉も不明瞭だ。

しかし、それから10年経った現在、ニューヨークはゆうきを愛おしく育み、ゆうきの親友になった。幸運と彼自身の底知れぬ好奇心のおかげで、ゆうきは毎日行う「探検」の途上に出会う消防士・ドアマン・ガードマン・先生・司書・店番、らと一種の大家族を形成した。彼らはみんなゆうきのことが大好きで、養子としてやってきた弟のように思っている。ゆうきの言うことは全部は分からないけれど、勤務の最中に、ゆうきの話し相手になってやる。

ゆうきはゆうきで、市交通局についての詩をつくったり、電車の車掌のアナウンスを覚えたり、消防士達にアカペラで歌を唱ってあげたりする。

ゆうきが第二の自宅にしているのがメトロポリタン美術館だ。大抵午後はゆうきはそこにいる。

何せ、中学一年生の時から、学校が終わると週2?3回はこの美術館にやってくるようになった。今では、顔パスでこの美術館に入れるし、研究者にしか本来は認められていないのだけれど、美術館の図書館のパソコンを使うことも許されている。

ゆうきのお気に入りの作品は沢山あるが、そのうちの一つが、19世紀末の日本の物売りを米国人が描いた絵だ。彼の国を思い出させるからだ。

ゆうきは子供向けの映画を見、子供向けの本を読み、子供向けの話を書く。自分自身が障害者であることをゆうきは知らないようだ。

高校でもゆうきは人気者だった。卒業式の時、彼の名前が呼ばれると、全員が立ち上がって彼に拍手を送った。

今日もまた、ゆうきは地下鉄の中で、足を空いている座席に乗せてはいけません、等々の新規則を読み上げていて、たまたま足を座席に乗っけていた見知らぬ中年のおばさんの足を引っ込めさせた上、彼女とお友達になった。

ゆうきの大家族はどんどん大きくなっているようだ。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/25/nyregion/25yuki.html?ei=5094&en=fe6ef8c508605483&hp=&ex=1135486800&partner=homepage&pagewanted=print1225日アクセス)による。)

 いかがでしたか。

 日本は、一つずつ切り離すとささやかかもしれないけれど、総体として見ると米国に大きなインパクトを与えていることが、以上ご紹介した同日付の三つの記事だけからも読み取れるのではないでしょうか。

 是松氏の払った犠牲は、米国がその原罪たる有色人種差別を克服する過程において、極めて大きな役割を果たしました。また、吉沢氏のおかげで米国の人々は日本の美と哲学への眼を開かれ、遠藤君おかげで米国の人々は、人間(じんかん)の文明である日本文明(コラム#113以下)の何たるかを体得することができているのであって、お二人のおかげで、米国の人々は米国の独善性を矯正するための重要な手がかりを与えられた、と言えるのではないでしょうか。

 これは、決して独善的な深読みではなく、NYタイムスが彼ら三人の記事を掲載した真意はこんなところであろうと私は確信しています。

 これからのNYタイムスには期待が持てそうです。

(続く)