太田述正コラム#10222005.12.29

<キリスト教と私(その3)>

 このようにカトリック教会は自己革新努力を行っている(注6)わけですが、プロテスタントの方に目を転じると、原理主義勢力が力を増してきており(コラムが多いので挙げない)、心配されます。

 (注6)とはいえカトリック教会が依然として、1.妊娠中絶に全面的に反対しているのみならず、2.避妊薬はもとよりコンドームの使用にすら反対したり、3.神父の結婚を認めなかったり、4.女性の神父就任を認めなかったり、更には5.新たな奇跡の認定をしたり、していることは問題だ(コラム#686)。3.以外については、発展途上国を中心とする人口の爆発的増大やエイズの蔓延を食い止め、女性の地位向上を図り、更には科学的精神の普及と迷信の除去を図るためにも、可及的速やかな是正が望まれる。

3 独善的な歴史認識

 (1)問題意識

 もう一つ、これはキリスト教の問題というよりは、キリスト教徒の問題ですが、一部のキリスト教徒に見られる、キリスト教の優越性を前提とした独善的な歴史認識には困ったものです。

(2)キリスト教と科学

20世紀を代表する哲学者の一人である英国のホワイトヘッド(Alfred North Whitehead1861?1947年)は、1925年に、キリスト教は欧米の科学の発展に寄与したとし、「エホバの個人的エネルギーとギリシャの哲学者の理性とがあいまって構築された」キリスト教の神概念が、理性的志向と探求的精神を促した、と主張しました。

しかし、ホワイトヘッド自身が示唆しているように、西欧の理性的思考の淵源はギリシャ哲学にあるのであって、キリスト教が理性的であるとすれば、それはギリシャ哲学の影響を受けたからにほかなりません。

また、キリスト教が理性的であると言うのなら、同じ一神教であってかつキリスト教の生みの親であるユダヤ教は、議論と思索を重視するという意味で、キリスト教以上に理性的な宗教であると言えますが、ユダヤ教が成立したのはギリシャ哲学の出現よりも前ですから、ユダヤ教の理性は、キリスト教と違って、本来的なものです。

ところが、この本来的に理性的なユダヤ教は、(それだけでは)ユダヤ人に科学をもたらすことはできませんでした。

他方、インド文明や支那文明は一神教的文明ではありませんが、それでもインド文明は数学・科学・理性的哲学を生み、支那文明は紙・火薬・羅針盤等の科学的大発明を生んでいます。

つまり、理性や科学はキリスト教の専売特許ではないことは明らかであり、むしろキリスト教は、ガリレオの異端審問に象徴されているように、理性や科学の発展を阻害した側面の方が強い、と言うべきでしょう。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print前掲による。)

ホワイトヘッドは、論理学ないし数学の基礎理論の研究から学者としてスタートした人物(http://plato.stanford.edu/entries/whitehead/1228日アクセス)であり、遺憾ながら歴史の素養が欠如しており、そのために誤った結論を導き出してしまったのでしょう。

(3)キリスト教と資本主義

20世紀を代表する社会学者である、ドイツのマックス・ヴェーバー(Max Weber1964?1920)は、その著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』(Die protestantische Ethik und der ‘Geist’ des Kapitalismus1904?1905)において、プロテスタンティズムは、世界の数多ある宗教・宗派の中でただ一つ、富の蓄積と消費の抑制とを同時に促したのであって、このことが欧米において資本主義をもたらした、と指摘しました。

このヴェーバーの説は、同じドイツの経済史家ゾンバルト(Werner Sombart1863?1941年)による、消費の抑制ではなく、奢侈こそが資本主義を生んだ、という的はずれの批判(注7)には耐えたものの、ベルギーの著名な歴史家のアンリ・ピレンヌ(Henri Pirenne1862?1935年)や、フランスの著名な歴史家のブローデル(Fernand Braudel1902?85年)等による、実証的歴史研究を踏まえた厳しい批判の結果、現在では旗色が悪くなっています。

(注7)ゾンバルトのこの説が的はずれであるゆえんは、人類史上、古代ローマや支那の宋等、豊かで奢侈に溺れた社会には事欠かないが、いずれも資本主義的離陸に失敗しているからだ。だから、欧米社会が人類史上初めて資本主義的離陸に成功したことについては、奢侈だけでは説明がつかない。そこでゾンバルトは、資本主義の成立には、奢侈の他、ユダヤ人の存在と戦争状態の継続が必要だと主張した(ソンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」(講談社学術文庫。原著は1922年。ただし、初版は1912年)6?7頁)。しかし、依然説得力は乏しい。

すなわち、ピレンヌは、資本主義のあらゆる本質的要素・・個人主義・企業・与信・投機、等々・・は12世紀以降のイタリアの都市共和国・・ヴェニス・ジェノア・フィレンツェ・・において見出すことができると指摘しましたし、ブローデルは、ずっと後になってから西欧の北方地域(プロテスタント地域)が西欧の地中海地域に代わって資本主義の中心となったが、北方地域において、資本主義に係る技術や経営手法に関し、新たに創造されたものは皆無であるとヴェーバーを批判したのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://chronicle.com/temp/reprint.php?id=tqm4xd5mqkk5px43d968m19qmf4w3g5y1228日アクセス)による。)

(続く)