太田述正コラム#10973(2019.12.9)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その47)>(2020.2.29公開)

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[新疆とアイルランドの比較]

 アイルランドだって、800年内外にわたって、外部勢力・・アイルランドの場合はイギリスのみ・・の支配を受けつつも、新疆と違って独立を果たし、自治をちゃんと行い得ているではないか、という予想される反論に対して、下掲のように、イギリスのアイルランド支配は、実質400年程度にとどまる、と指摘しておこう。↓

 「<ノルマン系のプランタジネット朝のイギリス国王の>ヘンリー2世・・・は・・・1171年に<アイルランドの>ウォーターフォードに上陸し、・・・ウォーターフォードとダブリンを王領都市として宣言し、自身の息子ジョンにアイルランドの支配権Dominus Hiberniae(Lord of Ireland, アイルランド卿)を与えた。ジョンが<1199年に>兄リチャード1世の後を継いで<イギリス>王位を継承すると、アイルランドも<イギリス>王国の支配下に入った。
 <しかし、>ノルマン人はアイルランド島の東岸地域ウォーターフォードから東アルスターまでを支配下においていた。これらの地域の・・・ノルマンの伯爵たちはダブリンやロンドンからは独立していた。アイルランド卿(Lord of Ireland)<(注107)>としてアイルランドを訪問したジョン王はこれらの伯爵家の軍事および統治上での独立を承認した。その他のノルマン人貴族はジョンのもとに忠誠を誓っていた。 

 (注107)「<イギリス>王の支配が及んだのは、ダブリンを中心としたアイルランド東部のペイルと呼ばれる限られた地域のみであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%8D%BF

 1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)がゲール人<(ケルト語派に属すゲール語を話すところの、アイルランドとスコットランドの原住民たるケルト系民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
>)の反<イギリス>貴族を味方につけてアイルランド王に推戴され、アイルランドに侵攻した。エドワードが敗退するまでにダブリンを中心として多くの都市が破壊された。・・・この戦乱を利用して、アイルランド人貴族たちは<イギリス>の占領によって奪われた土地の多くを取り戻した。
 1348年にはペスト(黒死病)がアイルランドへと伝染した。主に田舎に住んでいたアイルランド人に対して、<イギリス>人やノルマン人の多くは都市部に居住していたため、ペストにより大きな犠牲を出した。・・・ペストが去った後にアイルランド語とアイルランド土着の文化が一時的に勢力を取り戻した。この時期の英語圏はダブリン周辺のペイル地域のみに縮小している。
 ペイル以外のアイルランドで・・・ノルマン人貴族はアイルランド語<(ゲール語)>とその風俗を取り入れていた。かれらはOld Englishと呼ばれ、「本来のアイルランド人よりもさらにアイルランド的である」と言われた。以後の数世紀にわたり、彼らは<イギリス>とアイルランドとの対立の前面に立ち、カトリックの信仰を守り続けることになる。<イギリス>はアイルランドのゲール化を憂慮し、キルケニーで開催した議会において<イギリス>人がゲールの服を着、アイルランド語<(ゲール語)>を話すことを禁止したが、ダブリンにおける行政府の権威が小さかったためこの命令はほとんど効果をあげなかった。
 15世紀の後半には<イギリス>で薔薇戦争<(1455~85年)>が勃発し、アイルランドにおける<イギリス>の影響力はほぼ消失した。・・・
 <ところが、チューダー朝の>ヘンリー<8世>は、それまで<イギリス>王のアイルランド君主としての称号であったアイルランド卿に代えて、アイルランドの有力諸侯が認めないにもかかわらずアイルランド王を称した。<イギリス>による支配権拡大にはその後、100年余りの時間が費やされた。
 この<イギリス>による<アイルランドの>再占領は、エリザベス1世と<スチュアート朝の>ジェームズ1世の時代に一応完了した。幾度かに及ぶアイルランドの叛乱を鎮圧すると、ダブリンに置かれた<イギリス>の行政府の全島に及ぶ支配権は確実なものになった。16世紀中期から17世紀にかけては<イギリスによるアイルランド>の植民地化が進行し・・・スコットランドと<イギリス>からの入植者がマンスター、アルスター地方へと移住し、・・・アイルランドの特権階級を形成した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
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 ・・・「ウルムチ七・五事件」は、「新疆ウイグル自治区」トップの党委書記として15年も君臨し、「新疆王」と忌み嫌われてきた漢人独裁者、王楽泉<(注108)>(おうらくせん)の失脚をもたらした。

 (注108)1944年~。文革世代であり無学。「新疆ウイグル自治区中国共産党委員会書記(1995年~2010年 )・・・王が新疆に転任した1990年代は、中国内外でウイグル人の独立運動が活発化した時期であり、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降は、アフガニスタンや中央アジア諸国に隣接する新疆でも、アルカーイダの影響を受けたテロ組織が浸透することが懸念された。王は、「厳打」と呼ばれる治安強化キャンペーンを展開し、独立運動に対する厳しい取締りを実施した。
 2002年11月の中国共産党十六回全国代表大会の一中全会では、新疆における治安強化政策が江沢民から評価され、辺境省の幹部としては異例の中央政治局委員に選出された。胡錦涛政権下の2007年10月の第十七回全国代表大会でも引き続き、政治局員に再任された。2006年には、3期目となる自治区党委員会書記に選出され、新疆統治の特殊性から、3選を禁止した党規定の例外が認められたものとして注目された。・・・
 <現在は、>中国法学会会長<(?!)(太田)>」
 なお、新疆ウイグル自治区中国共産党委員会書記は、代々、新疆生産建設兵団第一政治委員を兼務するようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%A5%BD%E6%B3%89

 しかし、「チベット自治区」党委書記としてチベット人弾圧に辣腕を振るった陳全国<(注109)>(ちんぜんこく)という漢人が、2016年に横滑りで「新疆ウイグル自治区」党委書記に就任して以来、再びウイグル人に対する弾圧が激化した。

 (注109)1955年~。鄭州大(経)卒。チベット自治区党委書記時代(2011~16年)に中共随一の高度経済成長を実現。新疆ウイグル自治区でも高度経済成長と緑化の推進を果たしている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Chen_Quanguo

⇒関岡、この二人の間にいた張春賢(注110)(ちょうしゅんけん)を飛ばさなかった方がよかったのでは?(太田)

 (注110)1953年~。「文化大革命が終了した1976年に東北重型機械学院入学<し、>卒業<した。>・・・
  2002年 – 交通運輸部部長、党組書記に昇格。当時最年少の部長(49歳)だった
2005年12月 – 湖南省党委書記に転出
2010年4月 – ・・・王楽泉の後継として新疆ウイグル自治区党委員会書記に就任し、「最も開放的な書記」と呼ばれている。・・・
2012年11月 – 党中央政治局委員。
2016年8月・・・ – 党新疆ウイグル自治区委員会書記、新疆生産建設兵団第一政治委員を退任した。
  2018年3月 – 全人代常務委員会副委員長<~>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%A5%E8%B3%A2

 東トルキスタン各地に「再教育センター」なる巨大な強制収容施設が続々と建設され、百万人ものウイグル人が不当に拘束されている事実が発覚し始めた。・・・

⇒硬、軟、という二代の新疆ウイグル自治区党委書記に続いて、高度経済成長/緑化、と、「科学的」にイスラム過激派とウイグル独立派の根絶、を目指す、現在の党委書記を配置した、というのは、中共当局、なかなかやるじゃないの、と、私としては思いますね。(太田)

 迫害の実態<だが、>・・・「新疆ウイグル自治区」そのものが「野外刑務所」と化し、ウイグル人の文化、言語、宗教、アイデンティティを根絶する狂気の沙汰の民族浄化作戦が、国策として組織的に遂行されていることがわかる。
http://uyghur-j.org/20180908/uyghur_japan_report_20180908.pdf

(続く)