太田述正コラム#10302006.1.4

<ヴェーバーと私>

1 始めに

 「キリスト教と私」シリーズの中で、マックス・ヴェーバーの説とこの説に対する批判をとりあげましたが、きちんとヴェーバーの説を紹介しておらず、また、このこともあって「召命(天職)」といった言葉を説明抜きで使ったりしたほか、私自身がヴェーバーの説をどう見ているかについてもきちんと記さなかったので、本コラムで補足することにしました。

2 ヴェーバーの説

 ヴェーバーの説の全体像は、とても紹介しきれないので、「キリスト教と私」シリーズを、より的確にご理解いただくために最少限度必要な範囲にしぼりたいと思います。

 近代化とは、合理性(rationality)の貫徹過程だ。

 そして、合理性なるものは、計算可能性(calculability)・効率性(efficiency)・予測可能性(predictability)・非人間技術(Non-Human Technology)・不確実性の制御(Control Over Uncertainties)からなり、近代社会とは、合理性が経済・宗教・政治・行政・スポーツ・音楽等社会生活全般において貫徹した社会だ。

 経済生活において合理性が貫徹したものが資本主義であり、経済生活の社会生活全般における重要性にかんがみ、近代社会を資本主義社会と呼んでもよい。

 資本主義が発展するためには、6つの要素・・生産手段の私有(appropriation)・市場の自由(Market Freedom)・合理的技術(Rational Technology)・計算可能な法(Calculable Law)・自由労働市場(Free Labour Markets)・経済生活の商業化(Commercialization of Economic Life。債券・株式・金融・銀行・株式市場等の制度)・・が必要だ(注1)。

(以上、http://uregina.ca/~gingrich/o14f99.htm(1月2日アクセス)による。)

 (注1)ヴェーバーは、近代(資本主義)社会をバラ色の社会とは考えず、形式合理性(Formal rationality)の権化である官僚制が行政機構や大企業に普及する結果、個人の自由な価値の追求(実質合理性(Substantive rationality))が損なわれかねない社会である、と考えた。ヴェーバーは、この官僚制が社会全体を覆い尽くすようなこと(社会主義社会の到来)は避けなければならない、と主張した。その避けなければならない社会主義社会がロシア革命の結果誕生した時、ヴェーバーは、かかる社会は早晩崩壊するであろうと予言した。(太田。ヴェーバー(ウェーバー)の「官僚制」(角川文庫。絶版)と「社会主義」(講談社学術文庫)参照)

 このような近代(資本主義)社会への移行にあたって決定的な役割を果たしたのが、欧州における宗教改革によるプロテスタンティズムの生誕であり(注2)、就中召命(=天職=calling=ドイツ語ではBeruf)観念の成立だ。

 

 (2)ヴェーバーは、宗教(=理念=上部構造)が社会を変革する転轍手としての役割を果たし、経済的利害(=下部構造)なる機関車が列車を引っ張って、転轍(方向転換)された線路を上を驀進する、と考えた。(太田。ヴェーバーの「宗教社会学論集序論」」に載っているらしいが、大学1年の時の講義(下掲)の記憶によった。

 すなわち、カトリシズムにおいては、救済は自己及びこの世の否定によって得られるとしていたところ、プロテスタンティズムにおいては、この世の世俗的・日常的な義務を遂行することこそが神に嘉され救済に至る道である、とされたのだ。

(以上、特に断っていない限りhttp://uregina.ca/~gingrich/318n1302.htm(1月2日アクセス)による。)

3 ヴェーバーの説についての所見

 私は、1971年の大学1年の時に、折原助教授によって一年間にわたって行われたヴェーバーについての講義に出て、初めてヴェーバーのことを知った(コラム#990)のですが、最初はヴェーバーの魅力に取り憑かれました。

 そして、ヴェーバーの著作が、邦訳されたものだけでも膨大で多岐にわたることを知って、ヴェーバーってなんてすごい学者なんだろうと、感嘆しました。

 しかし、次第に私はヴェーバーの説に疑問を抱くようになりました。

 数ヶ月経った頃、私がヴェーバーの説について下した結論は、前に(コラム#9901027で)申し上げたように、ヴェーバーの説は誤っている、というものでした。

 どうしてそのような結論を下したかと言うと、近代化(資本主義化)に関し、世界の先頭を切って走り続けてきたイギリス(英国)は、16世紀以降、国教会の国であり、国教会はカトリシズムとプロテスタンティズムの折衷的な宗派であることから、イギリスをプロテスタンティズムの国とは言えないのではないか、と思ったからです。

 つまり、ヴェーバーは、カルヴィニズム(イギリスではピューリタニズム)をもってプロテスタンティズムの倫理を代表させたところ、イギリスではピューリタンが大きな役割を果たしたのは17世紀の清教徒革命の前後に過ぎないのだから、ヴェーバーの説はイギリスにはあてはまらないことになる。ということは、ヴェーバーの説が誤っているということだ、と思ったのです(注3)。

 (注3)ヴェーバーが支那(儒教)やインド(ヒンズー教)を正面から取り上げているのに、日本については、断片的な言及しかしていないことも私のヴェーバー批判を募らせた。急速に資本主義(近代)化した非キリスト教国たる日本から、ヴェーバーは眼を逸らそうとしたのではないか、と勘ぐったのだ。改めてざっと調べてみた(http://www.marxists.de/fareast/barker/pt2.htmhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593390/503-3194678-2399943、及びhttp://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho134.htm(いずれも1月3日アクセス)が、ヴェーバーの日本観は揺れ動いていた、という印象が拭えない

 ずっと後になって、1988年に英国に留学した時に、マクファーレーンの、イギリスは資本主義化(近代化)したのではなく、最初から・・つまり宗教改革の時代のはるか以前から・・資本主義(近代)社会だった、という説(コラム#88519)に出会い、私の上記の結論が更に補強されたような気がしたものです(注4)。

 (注4)ヴェーバーの挙げる資本主義の6つの要素のうち、少なくとも、生産手段の私有・市場の自由・計算可能な法・自由労働市場、の4つがイギリスには最初から備わっていたことは争いがたい事実である、と私は思う。