太田述正コラム#10995(2019.12.20)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その3)>(2020.3.11公開)

 「・・・その一例として、まず所謂君臣上下の倫に関する彼の説を挙げてみよう。
 「支那日本等に於ては君臣の倫を以て人の天性と称し、人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の倫あるが如く、君臣の分は人の生前に先(ま)づ定たるもの丶やうに思込み、孔子の如きも此惑溺を脱すること能はず・・・
 子は父たる可らず、婦は夫たる可らず、父子夫婦の間は変革し難しと雖ども、君は変じて臣たる可し。
 湯武の放伐即是なり。・・・
 我国の廃藩置県即是なり。
 是に由て之を観れば立君の政治も改む可らざるに非ず。
 唯之を改ると否とに就ての要訣は、其文明に便利なると不便利なるとを察するに在るのみ」(文明論之概略、巻一)・・・

⇒礼記の記述等を既にご紹介したところですが、「曽子の門人が孔子の言動をしるしたと<されるところの、>十三経のひとつ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E7%B5%8C
である 「《孝経》においては,天子から庶人にいたるまでの各階層それぞれの〈孝〉のありかたが説かれるとともに,〈孝〉は天地人の三才をつらぬく宇宙的原理にまで高められている<ところ、>〈孝〉は〈忠〉とあわせて〈忠孝〉とよばれることが多い<ものの>,本来〈忠〉に対して〈孝〉はより本源的であ<る>・・・と考えられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%A0%E5%AD%9D-97162
ことも併せ踏まえるに、「おそらく<支那>では王朝は幾度となく交代し、ときには異民族の支配もあったのに対し、日本では君臣関係は世襲され固定しがちであったからであろう<が、>日本においては君は親も同然であって、「忠」「孝」両面から二重に敬われる」
http://telhewga.blog25.fc2.com/blog-entry-93.html?sp
点で、支那と日本では、大衆道徳のレベルにおいて忠孝観に違いがあったのは確かでしょう。
 しかし、日本人であっても、まともに、朱子学を学び、更に、朱子学を入り口として広く儒教を学べば、支那における忠孝観が身につくはずなのに、諭吉がこんなことを繰り返し記しているということは、諭吉が、朱子学、ひいては広く儒教、について、余りよく知らなかったからに違いない、と、私は断定したくなってきました。(太田)

 所謂上下貴賤の名分という理念は封建階序制の最も重大な観念的紐帯となっていただけに、様々の方向から論じられている。
 例えば
 「・・・今一国と云ひ一村と云ひ会社と云ひ、都(すべ)て人間の交際と名(なづく)るものは皆大人と大人との仲間なり。
 他人と他人との附合なり。
 其本意は必ずしも悪念より生じたるに非<ねども、>・・・此仲間附合に実の親子の流儀を用ひんとするも亦難きに非ずや・・・
 此病に罹る者を偽君子と名(なづ)く。・・・

⇒でも、ここに来て、ようやく安心しました。
 「君臣関係は義合」(前出)でしかないのに、その関係を親子関係のように動かし得ないものと主張するような輩は、儒教に言う「君子」ではなく、「偽君子」である、と諭吉は断じているのですからね。
 つまり、諭吉は、「上下貴賤の名分という理念」は儒教にだって反している、と言っているのであり、丸山の、壮年期の諭吉が「儒教批判」に明け暮れていた的な諭吉評は的外れもいいところだ、ということです。
 ここで、先回りして申し上げておけば、私は、諭吉が犯した最大の過ちは、彼が、慶應義塾に、晩年の1898年に初等中等教育のための幼稚舎を正式に設置しつつ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE
大学院相当の研究教育組織を設置する意向すら示さないまま1901年に死去したことであると見ていて(コラム#省略)、以前から、壮年期の諭吉に比し晩年期の諭吉を残念視してきたところ、私のかかる見解についても、このシリーズの中で裏づけられたらいいなと思っている次第です。(太田)

 其<(その=偽君子の(太田))>最も著しきものを挙て云へば、普請奉行が大国割り前を促し、会計の役人が出入りの町人より附届(つけとどけ)を取るが如きは三百諸侯の家に殆ど定式(じょうしき)の法の如し。・・・」(学問のすヽめ、11編)・・・

⇒ここはさすがに、私は諭吉に不同意です。
 諭吉の言うような「偽君子」、と、「収賄者」、とは別次元の話ですし、そもそも、幕藩体制において、相場から逸脱しない範囲内の付け届けは当然視されていた(コラム#10786)のですからね。(太田)

 西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるヽや官私の別なく唯学者の世界に在り。
 我国の学問は所謂治者の学問にして恰も政府の一部分たるに過ぎず。
 試みに見よ、徳川の治世250年の間、国内に学校と称するものは本(もと)政府の設立に非ざれば諸藩のものなり。
 或は有名の学者なきに非ず、或いは大部の著述なきに非ざれども、其学者は必ず人の家来なり。
 其著書は必ず官の発兌なり。
 或いは浪人に学者もあらん、私の蔵版もあらんと雖ども、其浪人は人家来たらんことを願て得ざりし者なり。
 其私の蔵版も官版たらんことを希(ねご)ふて叶はざりし者なり・・・」(12~15、17)

⇒このくだりの文章は『文明論之概略』(1875年)の中からのものですが、ここは、諭吉、正論を吐いているものの、要は、彼は、自分が設立したところの、「私学」としての慶應義塾の宣伝を、「官学」を貶める形でやっているのです。
 私は、慶應義塾に係る諭吉の業績に関しては、(その経営者としての業績を除き、)ずっと以前(コラム#省略)から、全く評価をしていません。
 少々どぎつい宣伝をしたって構わないのだけれど、先ほど記したように、彼、宣伝をしただけで、宣伝内容に沿った義塾経営を結局やらずじまいだった、すなわち、慶應義塾を学問の府にしようとはしなかった、のですからね。(太田)
 
(続く)