太田述正コラム#11007(2019.12.26)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その9)>(2020.3.17公開)

 (二)蒋介石

 「一九二五年、孫文は北京にて逝去した。三年後に<支那>の支配者となった蒋介石によって、<中国国民党は、>より顕著な儒教文化の再評価へ赴くことになるが、孫文の思想には、その内在要因が十二分にあったというべきであろう。・・・」(上掲竹内論考)

⇒「より顕著な儒教文化の再評価」とは、私見では、蒋介石は陽明学・・但し、日本流の陽明学ではなく支那流の陽明学(後述)・・徒だったことから、孫文が信奉したマークI儒教に小修正を加え、孫文の主張したところの、蘇維埃(ソビエト)主義(=スターリン主義)の大同性、もまた否定するとともに、孫文のように「伝統儒教の人民観(愚民観)と妥協」することを潔しとしなかった(下掲)、という3点において、蒋介石の儒教観は孫文のそれとは異なっていた、というべきだろう。↓

 「1933年8月8日、・・・蒋介石は、・・・青年将校<達>にたいして・・・日本軍の精神から「武士道」と「<スローガン下での>精神面での協同一致」という二つのポイントを見出して、それらを日本軍の「強さ」の源だとし・・・また、彼自身の理解している「日本軍の精神」を単なる「軍の精神」としてではなく、むしろ日本人全体の国民精神だと見なして、それを手本にして<支那>人の国民精神の改造を試み<るべきである、という趣旨のことを>・・・語った<上で、>・・・こう述べている。
 「日本はいわゆる明治維新以来、海軍軍人であろうと陸軍軍人であろうと、天皇から兵士まで、また教育を受けたことのある国民はすべて『到良知<(注7)>』という三文字をもって彼らの民族精神の哲学的基礎としてきた。

 (注7)「王陽明の中心学説。『大学』の「致知」の「知」を『孟子』尽心上編の「良知」で解釈した説。陽明49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた。・・・この説の掲示以前,<彼によって>種々の論 (知行合一,静坐,格物) が掲げられたが,この「致良知」説が最善のものと<した>・・・。自己の固有する,是非善悪を直覚的に弁明する心の作用が「良知」であり,その良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが「致良知」の意味であると説く。・・・
 朱子(朱熹(き))は「知」を知識と解して、致知とは知識を推し究めすべてを知り尽くすことだとする主知主義の立場をとった。それに対して、王陽明は、朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、人間の心の生命力あふれる働きを重視したのである。」
https://kotobank.jp/word/%E8%87%B4%E8%89%AF%E7%9F%A5-9854

 そこで、日本は義侠心を重んじ、忠君愛国し、今日の世界で雄を唱えた」・・・
 蒋介石<は>・・・幼少のときから儒教に馴染んでいて、18歳のときに陽明学を学んでから生涯通した陽明学の信徒だと自認している。
 <だから、>彼は当然、「到良知」という言葉の重みをよくわかってい<た>はずだ。・・・
 その反面、彼の認識している、「私利私欲をむさぼり、国家・民族の利益を蔑ろにする」という<支那>人の国民性<(阿Q性!(太田))>は、まさに・・・日本人とは正反対のものであり、いわば「到良知」の対極にあるのである。・・・
 ならば、・・・日本人の国民精神を手本にして、<支那>人の悪しき国民性に対する改造を行な<わざるべからず、と、>・・・1934年2月19日、蒋介石は・・・新生活運動を発動した。
 この運動は、『礼・義・廉・恥』という伝統的な道徳を基本的な精神とし、国民生活の『軍事化・生産化・芸術化(合理化)』を中心目標とし、『整斉(整然さ)・清潔・簡単・素朴・迅速・確実』を実施原則とし、それを『衣・食・住・行』、つまり人々の日常生活に体現させることによって、近代国家の達成をめざしたのである」(石平『なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか』(PHP)より)
https://books.google.co.jp/books?id=pIeKCwAAQBAJ&pg=PT96&lpg=PT96&dq=%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3%EF%BC%9B%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6&source=bl&ots=VpKtN9L92W&sig=ACfU3U1BFiYHfuqSLa1-Wsxv-TJgpTqYVA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiTnsahydDmAhWafXAKHX3yC9gQ6AEwB3oECAoQAQ#v=onepage&q=%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3%EF%BC%9B%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6&f=false
 (私は、石平の言説を評価していないが、このくだりは、段瑞聡(注8)『蒋介石と新生活運動』(慶應義塾大学出版会。2006年)に全面的に拠っているので、事実関係については信頼できる、と考えた。(太田))

 (注8)内蒙古大学外国語学部1988年卒業・・・2004年博士(法学)(慶應義塾大学) ・・・慶應義塾大学大学・・・教授」
http://www.fbc.keio.ac.jp/professorate/staff_list/danzuisou/index.html

⇒蒋介石は、青年時代に、「日本陸軍の高田連隊で<の>・・・2年間の軍隊生活<の>・・・体験」を通じて以上のような日本人の国民精神観に到達した(上石平書)のだが、その致命的な誤りは、それが日本人の弥生性だけに着目したものであって、縄文性が抜け落ちていたことだ。
 そんなことになってしまったのは、(前にも記したことがある(コラム#省略)けれど、)縄文性は庶民も含めて大部分の日本人に備わっていたのに対し、弥生性は庶民には基本的に備わっておらず、そのため、維新後の、徴兵制を基盤にした陸海軍の軍隊生活では、弥生性の注入、維持涵養、に、もっぱら努力が傾注されたことから、縄文性の方を蒋介石が見過ごした、ということだろう。
 蒋介石は、日本の維新の志士達の多くが陽明学徒であったことを知って、同じ陽明学徒として大いに鼓舞されたことだろうが、志士達、というか、幕末の武士達、の多くが陽明学に惹かれたのは、支那では無視されていたために彼自身は教わらなかった可能性が高いところの、日本では重視された王陽明の「万物一体の仁」・・人間主義!・・抱懐部分、のゆえであったことに、彼は気付くことができなかった、と思われるのだ。

(続く)