太田述正コラム#11009(2019.12.27)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その10)>(2020.3.18公開)

 だから、帝国陸軍の軍隊生活的なものを支那社会全体に移植することで支那人達に弥生性を注入し、維持涵養しようとした蒋介石の新生活運動は失敗すべくして失敗したわけだ。
 というか、蒋介石の拡大家族は『礼・義・廉・恥』を欠き、腐敗しきっていたというのに、彼がその是正に取り組むことはなかった(コラム#省略)、つまりは、「隗より始め」ようとしなかった、以上、そもそも蒋介石が真剣に新生活運動を推進しようとしたとは、私には到底思えない。(太田)

二、中国共産党は、支那における儒教が基本的にマークI儒教、であって、かつ、(既に見たように)中国国民党が基本的にマークI儒教信奉政党であったことから、中国国民党を攻撃する手段として反儒教を掲げ続け、このことも与って、中国国民党から権力を奪取することに成功した。

 少なくとも、日本では、毛沢東は一貫して反儒教であった、と、みんなが思い込んでいるようだ。↓

 「儒教は、中国の社会構造を規定し、中国を生きる人びとの意識を規定している。何千年もの時間をかけて、中国文明の深いところまで儒教は根を下ろした。・・・
 儒教を解体して、中国を近代化のレールに乗せる。その大転換を果たしたのが、毛沢東である。・・・
 儒教を解体するためには、それに代わる思想が、外から来る必要があった。それがマルクス主義である。マルクス主義は革命のための、普遍思想である。毛沢東はそれを、中国化した。<そして、>・・・中国共産党は、普遍思想の担い手から、ナショナリズムの担い手に変わった。」(橋爪大三郎)
https://toyokeizai.net/articles/-/94960

⇒儒教を解体する必要は必ずしもなかったことはさておき、毛沢東が注目したのは外は外でも日本文明であって、マルクス主義は、彼によって、この日本文明総体継受を図るための方法論として援用されたに過ぎない、というのが私のかねてよりの指摘(コラム#省略)だが、この話は、今回の本筋ではないので、これくらいにしておく。(太田)

 「丸谷<才一:・・・支那の伝統的な>知識人による政治・・・を引き継いでいたのが周恩来だったろうと思うんですよ。
 ところがその周恩来の原理、あるいは、儒教的原理・・・と、それに対立する反儒教的論理、あるいは 『水滸伝』的方法、そういうものとの対立が、必ずあったに違いない。
 その対立をうまくごまかしながら やっていったのが、周恩来と毛沢東二人の関係だったんじゃ ないのかな。・・・
 だから、孔子、林彪批判運動の「批林批孔」というのも、周恩来の儒教的論理に対する反対なわけですよ。
  山崎正和 :・・・とくに「批孔」のほうです。
 これは、語るに落ちるというやつで、毛沢東が 『水滸伝』的人間で、反儒教主義者だったことの証拠だといえるでしょう。」
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12464198008.html

⇒しかし、下掲に目を通して欲しい。↓

 「毛沢東は・・・村の寺子屋で儒教の「四書」「五<経>」を習い、伝記「水滸伝」「三国志」「精忠伝」を好んだ。記憶力は抜群で、好きではない儒教の古典を含む、多くの書籍を暗記していたという。<(←このくだりは、裏付けがとれなかった。(太田))>
 13歳になると寺子屋をやめ家事手伝いとなる。その後、当時のベストセラー本「盛世危言」<(注9)>を読み、感銘を受ける。滅亡しかけた祖国を問う内容であった。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

 (注9)「清末の<支那>近代化を論じた書。鄭観応著。14巻。1895・・・年完成。列国の脅威のなかで,<支那>の危機を救うため,軍事を主とする洋務論 (→洋務派 ) から内政を重視する変法論 (→変法自彊運動 ) への転換を主張。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%9B%E4%B8%96%E5%8D%B1%E8%A8%80-86087
 [その著者の鄭観応(Zheng Guanying。1842~1922/1923年)は、教育としては、科挙の勉強をしたが17才の時に不合格となり、以後、夜学の英語学校で学んだだけであるところ、]「上海<で>イギリス商人の下で買辧として働いた<後>,1880年・・・李鴻章の委嘱を受けて上海機器織布局総辧となり,さらに輪船招商局,上海電報局などの運営に当たった。・・・<そして、>《易言》<や>《盛世危言》の著に<おいて、>・・・当時の洋務運動に同調しながらも,一方で民間の商業を重視し,議院を設けて民意を反映させることを主張した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%84%AD%E8%A6%B3%E5%BF%9C-99917#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
https://en.wikipedia.org/wiki/Zheng_Guanying ([]内)

⇒毛沢東は、本当に「儒教」が「好きではな」かったのなら、四書五経の多くを「暗記」するはずがないし、少年の時に最も感銘を受けた本の著者の鄭観応が儒教教育しか受けたことがない人間であって、かつ、その鄭が儒教批判を行った形跡がないこと・・そのことを毛沢東は当然知っていただろう・・も、彼の儒教への好意をより確固としたものにした、と、私は想像している。
 毛沢東は、後に、儒教批判のスタンスを採ったため、自分は幼少期から「儒教」が「好きではな」かった、ということにして取り繕った、ということだろう。
 (いずれにせよ、丸谷のように、『論語』的なものと『水滸伝』的なものとが二律背反的である、と解するのはおかしいのではないか。毛沢東の例を見ても分かるように、支那の子供達は、昔から当時まで、多かれ少なかれ、両方に親しみながら人となってきた、と思われるのだから・・。)

(続く)